2022/11/14

●『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)を「物語」の水準で要約するならば、「不安定な状態にある人」と「不安定な状態にある家族」の不幸な出会いによって悲劇的な事件が起きてしまった、ということになるだろう。とはいえ、ここで追求されているのはあくまで、「不安定な状態にある人(アキ)」と「不安定な状態にある家族(ノドカとナオト)」との関係と、その「煮詰まり(煮詰まりの強まり、煮詰まりの深まり)」であって、そのことと「事件」との結びつきは唐突であり、飛躍があって、よく分からない。一応、作品の終盤で読み上げられる「手紙」によって、加害者であるアキによる事件の総括が示されているが、それ自体にそれほど説得力があるとは思えない。

だがそれは、この作品の瑕疵というわけではないと思う。事件はあくまで謎のように起り、その謎は完璧には解かれない。この作品が、非常に強い(多重的な)説得力を持って描き出す三人の関係の「煮詰まり」と、その結果として起きてしまう事件とは、原因→結果という形で、論理的に解明できるようには綺麗に繋がっていない。しかしかといって、事件がとってつけたような、作品を綺麗に終わらせるための都合で呼び出されたような、適当に追加された刺激の強い要素であるかのような、そのような安易なものとは感じられない。

三人の関係の煮詰まりと、その危うさの中でアキが起こしてしまう事件との間には、論理的に説得力のあるようなつながりは見出せない。しかし、この作品で表現される「三人の関係の煮詰まり」の強さ(表現としての感覚的な強さ)が、そこで何か酷いことが起きてしまってもおかしくないような状態に達していることには、とても強い説得力がある。酷いことが起きてもおかしくない「空気」、あるいは「ポテンシャル」が確実に作り出されているように感じられる。

何かが起こってもおかしくないような危うい空気(ここで空気とはひとまず、「文脈」の多重な重なり合いだと言い換えても良い)があり、そのような空気のなかで、決定的な事件が起きてしまう。空気とは、あまりに複雑であるために「空気」としてしか認識できないような文脈の多重な重なり合い、絡まり合いであるとするなら、ある空気の状態から、どのような「事件」が導かれてしまうのかを事前に予測することはできないし、また、事後的に「(充分には)理解する」こともできなかったとしても、不思議ではない。

この作品によって示される「原因(状態)」と「結果(事件)」の間にある飛躍と断絶は、人が論理的に理解可能な因果関係によっては捉えきれない因果関係のあり方を示しているように思われる。世界には、人の認知限界を超えた因果関係があり、それを認めることは決して神秘主義ではないし、反知性主義でもない。

というか、人の認知限界を超える因果関係を、神秘主義的にでも、反知性主義的にでもなく表現することは困難であるが、それを、複雑な文脈の重なりとしての「空気」によって表現することで実現しているのが、この作品なのではないか。