2022/11/13

●『王国(あるいはその家について)』(草野なつか)の終盤、いわゆる「本読み」が行われている場面では、脚本にあるはずの「ト書き」の部分が読み上げられない。俳優でなくとも、シーン番号を読み上げる声や、ノドカの子供のセリフを読み上げる声によって読み上げられてもいいと思うのだが、読み上げられない。かといって、セリフ(対話)のみがとりあげられ、ト書き部分が無視されるのでもない。おそらく、俳優たちはト書きを「黙読」しており、ト書き部分の長さの分だけ沈黙が続く。その間観客は、沈黙する(黙読する)俳優の顔を見ていることになる。
このやり方は、普通のことでも自然なことでもない。言ってみれば「不自然なやり方」が「意図的」に選ばれている。確かに、ト書きがなくても、シーン番号と共に「場所」の設定が読み上げられることと、これまで何度も繰り返されたいくつかの場面の演技を見ているので、そこに何が書かれているのは、ある程度は推測できる。しかし、推測できるから省略するということと、黙読する「沈黙の顔」を、黙読の時間の分だけきっちりと(律儀に?)画面に映し続けるということは違う。演じるでもなく、ただ出番を待機しているのでもない、「黙読する顔」というなんとも中途半端な状態に、この映画はわざわざ多くの時間をさいている。
この「黙読する顔」の存在が、この映画の不思議な感触のうちの重要な一つと密接に関係しているように思われる。感覚的な印象だが、この映画はマティスの教会の様なのだ。白いタイルの上に、シンプルな黒い線で描かれた、シンプルな描画(壁画)があり、そこに、ステンドグラスを通過した色とりどりの外光が、時間の経過によって様々に映り込む。ここで、シンプルな描画にあたるのが俳優の身体とその動き・表情であり、そこに刺す外光にあたるものが、言葉(対話とモノローグ)と、何度か挿入される実景だ。この例えを続けるなら、「黙読する顔」は、外光の到来を待機している状態のシンプルな描線そのもの(の存在を強く匂わすもの)にあたるのではないか。それは、たんに沈黙しているのではなく「黙読」しているのだから、その内に言葉を宿しているのだが。
さらに、マティスの教会の例えを続けると、この映画では、俳優の身体と言葉(対話・モノローグ)と実景とは、壁画とステンドグラスと外光のように分離している。もともと分離しているものが、しかし、事後的に重ね合わされて、ある状態が成り立っている。もともと分離しているということと、それが今「このようにして」重ね合わされているということの、その両方の状態を同時に示そうとしているように思われる。「黙読する沈黙の顔」を見ていると、特にそのように感じられる。