2022/03/08

ロベール・ブレッソンバルタザールどこへ行く』をDVDで観た。ブレッソンは、不良少年とかロックとか、そういうアメリカ的なものが大嫌いなのだなと思った。この映画でも『ラルジャン』でも、不良少年は一睡の余地もない卑小な悪そのものとして存在している。

誰が観てもそうだと思うが、この映画で最も印象に残るのはロバ(バルタザール)の眼差しで、惹きつけられずにはいられない強い表現性がある。言い方は悪いが、ちょっとこの使い方はずるいのではないかとさえ思う。動物の、無表情であるがゆえの無限の表情の豊かさを示されれば、それはどうしたって心を動かされてしまうに決まっている。あえて言えば、これが「動物を使った安易なお涙ちょうだいモノ」とどれほど違うのかは微妙だ。

ただ、この映画の「ロバの眼差し」の強さがお涙ちょうだいモノとはっきり異なるのは、それが「かわいそうな同情すべき存在」への感情移入を促すためのものとして機能するのではないという点だ。そうではなく、この眼差しは、お前たち(人間たち)のこと、その愚かな行いを「見ている」、人間以外の者がいるぞ、ということを強く示す眼差しなのだ。つまり、超越的な視点を代行する眼差しだと言えると思う。

この映画で描かれるのは、人間たちの愚かさであり、自らの愚かさによって導かれる彼らの悲劇であり、さらにその愚かさによる悲劇に理不尽にも巻き込まれるロバの姿だろう。人間の悲劇は自らの愚かさのせいだが、ロバの悲劇はロバのせいではなく人のせいだ。その意味で、ロバは運命に対して最も受動的で受苦的な存在である。ロバはただ一方的に悲劇に巻き込まれる、最も弱い立場にある。そのような、最も強く状況に依存するロバこそが、その状況のすべてを冷徹に見届ける超越的な視点でもあるのだ。最も弱い奴隷的な位置にいる者が、最も強い神の視点をもつ。このような逆転を成立させるために、(安易さとギリギリに紙一重の)動物の「無表情であるがゆえの無限の表情の豊かさ」が用いられる。

(この映画が「動物が(人々の愚かさを)見ている」という映画であることをはっきり知らされるのが、バルタザールがサーカスに貰われた時の、サーカスの動物たちをバルタザールが見て、バルタザールをサーカスの動物たちが見る、動物たちによって視線が交わされる場面だろう。動物たちも皆「見ている」のだということが強く印象づけられる。)

この映画の登場人物たちのほとんどが、自らの資質をそのまま体現するという意味で、とても素朴な存在だと言える。悪人の資質をもって生まれた者はただただ悪をなし(不良少年)、頑固者の資質をもつ者はどこまでも頑固に振る舞い(父)、善良な者は善良でありつづけ(幼なじみ)、金満家として生まれた者はひたすら金に固執する(クロソウスキー!)。彼らは皆、自分の存在のあり方に迷いを感じることがなく、ただ自分自身に忠実に行動する。だからこの映画の悲劇は、いわば機械が作動するような自動的な悲劇だ。ただほとんど唯一、アンヌ・ヴィアゼムスキーだけが、自分のあり方に疑いを持ち、迷いを持つ。彼女は、愚か者として生まれ、愚か者として振る舞うが、もし、自分が不良少年に惹かれるのではなく、善良な幼なじみを愛することが出来たなら? と自問する。彼女だけが、実際にこうである自分とは別様の自分の可能性を考え、迷い、彷徨いという中間過程を経て、その行動を変える(彼女に「彷徨」の余地を与えるのが、バルタザールという存在であり、パルタザールによって喚起される幼い記憶の感触なのだ)。しかし結果として、このことが彼女の悲劇を一層深刻なものにする。

(もう一人、多くの動物たちと貧しい生活を共にし、一度死にかけたバルタザールを引き取って元気に回復させられるという、動物への強い親和性を持ちながらも、酒に酔うと動物たちを虐待してしまう、「二重性」という複雑さを持つ人物も登場する。)

おそらくこの映画においてバルタザールは三つのことなる位相をもつ存在だろう。(1)この映画世界で最も弱く受動的な立場にあり、最も強く運命に翻弄される、客体化された存在。(2)この映画の世界の関係性のただ中にありながらも、同時に、関係の外から関係のあり様を見ている「超越的な視線」の存在を感じさせるもの。(3)自分の資質に忠実であるという意味できわめて素朴な登場人物たちに、「迷い(中間過程)」や「二重性」という複雑さを生じさせるための媒介。