●「過去の話」磯崎憲一郎(「文学界」1月号)より。
叡山電車の中では隣り合わせに並んで座った。何かの拍子に彼女が電車の進行方向に振り返った。すると背中が、拒む間も与えぬほど重々しい質量となって私の前に迫ってきた。茶色い髪が垂直に落ちて、肩甲骨の下でわずかに内側に巻き込んで途切れた。花の匂いがして、自然の中でごく稀に顕れる公式のようなものが見えた。満たされなかった思いだけが長い時間が経った後で真価を顕わにする。前日の晩遅く、女はそう呟いたのではなかったか、それともそれは私が口にした言葉だったのか。ケーブルカーが徐々に速度を落とし、ついには停まった。気が付いてみれば他に乗客はおらず、この空間の内部にいるのは女と私だけだった。運転手が視線を前方に据えたまま言った、ほらご覧なさい、動物が線路を横切ります、右側の笹が動いています、たぶん鹿の親子でしょう、こんなことは滅多にありません、これから見る光景をけっして忘れぬように、生涯に亘って、網膜に焼き付けつけて、いつでも取り出せるように大事に収納しておくように。じっさいに鹿の親子は現れた。全身真っ黒な毛で覆われていて、小鹿に至っては猫かタヌキのように小さかったが、あたかも婚礼の儀式か、そうでなければ精霊でも見るかのように二人とも背筋を伸ばして押し黙ったままだった。女は動物園に勤めていた。別に偶然じゃあない、昼間私が動物園に行ったことが夜の店での会話の糸口になって彼女と知り合ったのだ。でも、動物園にはたまたま迷い込んだようなものなのだから、そう考えるならばひと繋がりの連鎖だったと言えるのかもしれない。アリクイならば動物園にいる筈だと彼女は言った、もしかしたら本当はアリクイなどいないのを知っていて私にそう言ってみたかっただけなのかもしれない。しかし動物たちに囲まれた職場というのは、この時代にあって奇跡のように恵まれた環境ですね、なんといっても彼らは家畜なんかと違う、ただそこにいて姿をさらすためだけに遠く南米のジャングルやアジアの砂漠からやってきた珍しい動物たちなんだから。そこで彼女は釘を刺した。いくら動物園といったってその中にいるのは動物よりも人間の方がはるかに多いものなのよ。》
●書き写しながらしきりに感心してしまうのだが、それはともかく、最後の彼女の言葉は、常識的に考えれば、動物園と言ったって他の職場とかわらず、人間たちが仕事をし、人間たちを呼び寄せている、人間たちの職場なのだという風にとれるし、実際そういう意味なのだろう。しかし、それはまず意味以前にたんに「私」のお喋りを止めるための言葉であろう。そしてさらに、この場面を、この小説を、ここまで読み続けていると、この言葉がそのような「常識的な意味」ではなく、意味を超えたところで何かの秘密や深淵を告げている呪文であるかのように響く気がする。
●他の磯崎憲一郎の小説と同様、「過去の話」もまた、冒頭の一ブロックが面白くて、そこを何度も繰り返して読んでしまい、それだけで一篇を読み終わったかのように満足してしまう。冒頭の一ブロックには三つの視線が書き込まれており、この三つの視線に磯崎小説の秘密があるように思う。
●まず一つ目。
《どんな場面を設定しても良いのだが、誰かを見送るとき、その誰かというのは家族でも、恋人でも、単なる友人でも、誰であっても構わない、ただその人が見えなくなるまで、視界から完全に消え去るまではその場を立ち去ることができない、という人たちがいる。私の母がそうだった。》
ここではある眼差しの存在が記述され、その眼差しの主は、眼差しの対象である《その人が見えなくなるまで、視界から完全に消え去るまではその場を立ち去ることができない》のだという。その主である人物(のうちの一人)として、母という具体的な人物が結像される。
●二つ目。
《車が停止するかしないかのうちに助手席のドアが開き一人の少年が転げ落ちるように飛び出す、そのとき既に、右手には定期券を握っている。前のめりながら憑かれたように走る改札までの二十メートルほどの間に一度、そして駅員に定期を見せる瞬間にも状態をねじってもう一度、私は後ろを振り返った筈だ。車は同じ場所に停まったままだった。大きく開けた助手席の窓を通して、母はこちらを見ていた。陽気に手を振ることなど決してせず、ただ威圧する両目だけが遠ざかっていく私の視線を捉え、非難と憐みを投げ返してきた。》
ここで、「誰か」だった母の眼差しの対象に「私」が位置する。同時に、そのような「母の眼差し」が、「私の眼差し」によって見られることになる。私の眼差しによって見られた母の眼差しは、私に「非難」と「憐み」を返してくる。ここで「私」は、母による非難と憐みの眼差しから見られていることによって、存在している。
さらに、本作においてこの眼差しは、「私」に転移する。「私」は、線路の間の草むらの子犬や、トラックの荷台の太った金髪の少女から、目を離すことが出来なくなる。私は、母が私を見ていたようにして、子犬や少女を見ることになる。私が、母の眼差しによって存在出来ていた(母が私からけっして目を離さなかった)のと同様、子犬や少女もまた、私の眼差しが必要であるはずで、だから私は目を離すことが出来なくなる。「私」の眼差しは母からの転移であり、その母の眼差しもまた、相手が視界から消えるまで立ち去ることの出来ない多くの《人たち》に繋がっており、それらは互いに交錯し、つまり母の眼差しはこの世界そのものからの眼差しでもある。
●三つ目
《ところが時にその後で、改札を抜けてホームへ上がる階段の踊り場の窓を開けて、今度は逆に私が母を見下ろすことだってあったのだ。踊り場の窓からはロータリー全体を見渡すことができた。息子の出発を見届けた彼女は安心して助手席の窓を閉めサイドブレーキを下す、タイヤが大型動物の歩みのようにのろのろと回転しはじめる、水色の車はロータリーを半周してから交差点へと向かう、そして惜しむようにゆっくりと、私たちと同じように駅まで家族を送ってきた他の車の列に合流する。それらの物たちの動きを、私は、私が去った後の世界として高い位置から見下ろしていた。》
母からの眼差しが途切れた後に、磯崎的人物はしばしば飛躍をみせる。そして、母の眼差しの無くなったロータリーを上から見下ろすことになる。ここで、母の車が《私たちと同じように駅まで家族を送ってきた他の車の列に合流する》ことで、母へと焦点化された冒頭の眼差しが、再び多くの《人たち》の眼差しへと返され、世界へと散ってゆく。この時、ロータリー全体が、母が去った後(母の死後)の世界としてではなく、「私」が去った後(「私」の死後)の世界であるかのように眺められていることが特徴的だと思う。「私」とは、母の(あるいは母を通じた世界からの)非難と憐みの眼差しのもとにいることによって「私」なのであり、それが途切れた後は「私」であって「私」ではないのだ。
●「過去の話」という小説には確かに、冒頭の一ブロックに示された三つの眼差しの重力が作用しているが、同時に、その磁力の圏外へと小説を導いてゆく別の力動も宿しているように思う。そしてそれは主に動物たちの主題と変奏による力であるように思う。最初に引用した部分に出てくる動物園に勤める年上の女は、まるで動物たちの化身のようでもあり、だとすれば彼女の言葉は、動物と人間の関係を反転ささせたものだと考えることもできる。