磯崎憲一郎「脱走」(「文學界」10月号)。連作の四つめ。前の「見張りの男」があってその次にこの「脱走」とつづくとき、そこから感じられる切迫感は半端ではないように感じる。この切迫感は、一定の収入があり、(会社的にも家庭的にも)責任ある立場にいるような四十代、五十代くらいのサラリーマンというような人にはとてもリアルに響くものなのではないかという気がする。多くの人は、このような切迫感とともに生きているのではないか。ぼくはそのような立場ではないけど。で、そういうものは、「小説のリテラシー」のようなものとは関係なく、伝わる人には伝わるものなのではないだろうか。磯崎さんの小説の強さは前衛性にあるというより、むしろそのような(大衆性というのとは違うけど)一般性にあるのではないか。
●磯崎的な孤独の感触には一般性がある、という時、孤独が一般性を持つとはどういうことなのか。一般性をもつからといって孤独が孤独でなくなるわけではない。「孤独なのはお前だけではない」という形の連み方こそが磯崎さんの小説では最も厳しく排されていると思う。脱出とは何より、孤独なのはお前だけではないのだということによって強いられる関係からの脱出であろう。
●「脱走」へと向かう切迫感というは、ある種の社会性に対する飽き、疲労、倦怠、忌避のような感覚から発しているように思われる。しかしそれは同時に他方にある、自負や持続、責任の感情と恐らく相補的であり、だからそれは、一定の社会的な責任を自覚的に保持しようとする者のもとへと現れる感覚であるように思う。つまり、私に使命を課すものとしての社会性と、「私の孤独」を「孤独なのはお前だけではない」という関係へと堕落させようとする社会性が同時にある。「私」は、前者のなかを生きるうちに否応なく後者(酒を飲んで互いの弱さを赦し合い、下らない映画ばかりがつくられる世界)に巻き込まれる。そこから倦怠と忌避の感情が育まれる、というような。
●この小説では、「脱走」は山下清の放浪と重ねられる。前作「見張りの男」では「私」は、様々な項へと拡散=変換されてゆくものであったが、この作品では「私」が山下清と合流するように重なってゆく。そして、山下清の放浪は放浪ではなく脱走であるというのがこの小説だと言える。何からの脱走なのか。学園からであり、兵役からであり、お世話になった人たちからであろう。兵役はともかく、何故、自分を悪いように扱うわけではない学園や世話になった人々からも脱走しなければならないのか。それは、孤独な生を全うするためであろう。
●では「私」はなぜ脱出するのか。「私」の旅立ちは、遠くにいるかもしれない理解者を求めるためのものなのだろうか。この小説の冒頭はうっかりするとそう読んでしましかねない。しかしそう断定できるようには書かれていないと思う。それに、「私」の併走者である山下清の脱走は理解者を求めてのものなどではなかった。むしろこの旅は、「遠くにいる理解者を求めて旅に出る」という考えが「罠」であることを自ら証明する(確かめる)ために進んで罠にハマる旅であるように思われる。おそらく「私」は、自らの孤独な生を厳しく律するためにこそわざわざ罠にハマりに出かけるのだ。
≪しかしもしこれが罠だとするならば、もの凄く巧妙に作られた罠、他の何者でもない正しく自分じしんでなければ作り得ないような唯一無二の罠であるように思えてくる。≫
≪恐らく私は試されているのだろうが、試しているのは他者なのか? それとも自分じしんなのか? ≫
●そして「私」はあっさりと罠にハマる。自分じしんでなければ作り得ないような巧妙な罠は、過去の形をしている。「私」は旅先で中学時代の記憶に絡め取られるだろう。中学のときの同級生だという≪白髪の老婆≫は、≪私の手を握って≫、≪まるでかつて子育ての時代の私が疲れてその場に座り込もうとする幼い娘を無理やり立たせて手を引いたときさながらに≫ひきたて、罠の方へと連れ去ってしまう。過去は「私」に対して、まるで子供にとっての親のように強い力をもつ。ここで、「私」が既に親であることによって、「私」を罠へと引き立てる力が、老婆が発するものなのか「私」じしんに起源をもつのかが両義的な感じになってもいる。
●罠での体験はそれ自体決して空疎なものというわけではない。白髪の老婆が経営する旅館で働きながら、≪じっさいに六十組の布団を畳んでみて初めて私は、六十組の布団を畳むことがどれほど重労働かを知る≫のだし、《この集団の一員であることによって、奇妙な焦りと、何十年も感じたことのないような若々しい空腹を覚え》、≪どんぶり飯二杯を平らげ≫たりもする。このような充実感は、≪よく働く≫という山下清が放浪の先で世話になった場所で感じたものとも同様のものであろう。なにしろ「そこ」は、≪こう見えたって俺たちだって苦労をして、夜ごと酒を酌み交わしては互いの弱さを赦し合い、下らない映画ばかりを大量につくりつづける今の世の中に背を向けて、それでも何とか孤立無援には陥らぬような場所を確保しているのだから≫というような場所であるのだから。しかし山下清は、それでも脱走する。
山下清は、≪物乞いはけっして悪いことではない≫と母から教えられ、口から出まかせの嘘で食べ物を恵んでもらいはするが、≪金にせよ食物にせよ盗みだけは、死ぬまで一度も働いたことはなかった≫。しかし「私」の働く旅館では、夜ごとに客の食べ残したもので従業員たちの宴会が開かれ、その客からして、≪どうせ自分の懐から払った金で来ている訳じゃあないんだから≫などと口にするのが耳にはいってくるのだ。そんななか、宿舎で「私」と同室の男が、「私」を先導するように姿を消す(この男もまた、山下清と合流するかのようだ)。
●「私」の脱走とは、仕事をやめ、家族にも黙って旅に出ることではない。少なくとも、それだけではない。旅に出ることで自ら進んでハマった罠から脱出することなのだ。それはつまり、過去からの、あるいは過去とのある種の(甘い)関係からの脱走でもある。だからそれは、また元居た位置(社会)へ戻ることであるのかもしれないし、そうではないかもしれない。
≪人間は過去が積み上がってできているものだとしても、過去の側でも私を理解してくれているなどと期待するのは傲慢もはなはだしい≫。
≪理解者が知り得ぬ程の遠くにいるが故に私が孤独なのだとしたら、翻って正しくその孤独こそが、理解者の存在を担保してくれる≫。
おそらく「私」は出発前からこのことを知っていたように思う。しかしそれを改めて確認し自覚するために、自ら罠にハマる旅に出たということではないか。
●≪風が吹くと群青色に渦巻く麦畑が広がり…≫という表現がみられる。麦畑と群青色が結びつくというのは不思議な感じだ。しかしそこに≪渦巻く≫が加わっていると、これはゴッホの絵からの連想なのかなあと思う。いや、そうじゃなくて山下清にそういう絵があるのかも。