●noteに、「鼻血を垂らす幽霊・現在と想起の抗争 ポン・ジュノ母なる証明』論(1)」を公開しています。初出は「ユリイカ」2010年5月号(特集・ポン・ジュノ)です。
https://note.mu/furuyatoshihiro
●人類学の新しい動向は気になっていて、ストラザーンの本とかも買ってはあるのだが、他にも読むべき本が多数あって、なかなかそっちまで頭がまわらないので、ズルをして、放送大学大学院の「人類学の現在:人類学研究」という講座のテキストを買って、時間のある時とか、トイレのなかとかでパラパラみている。とりあえず教科書的なテキストで大づかみに感じをつかんでおこう、ということなのだが、それだけでも、現在の人類学の重要性は感じられる。おそらく、社会や政治、倫理などについて考えるとしたら、人類学を参照しないではすませられないのだなあ、と。以下は、いわゆる存在論的転換について書かれた3章「世界はどのようにできているのか」を読んでの感想。
二十世紀の西欧の思想の多くは、西欧、近代、そして科学という普遍的とされる価値観の相対化を行ってきたと言える。でもそれは、背景として、事実上それらの圧倒的な強さがあった上で成り立っていた。なんだかんだ言っても、啓蒙や教育が進めば、文化の違いによる多少の偏差はあるとしても、基本的に皆、論理的で合理的に思考し行動する人になり、民主主義が広がるのだろう、と。多文化主義というのは基本的にそういうものだろう。
しかし、どうもそういうことにはならないらしい、というのが二十一世紀になって分かってくる。一方で、LHCが陽子を衝突させてビッグバンのシミュレーションを行っている同じ時代に、もう一方には進化論を受け入れない人たちも多数存在する。おそらく、そういう人にとって真理とは聖書に書かれていることであって(真理の根拠は聖書であって)、この物質的世界の中をどれだけ詳しく調べても神の行いとしての真理には迫れないという考えなのだろう。一方では宇宙とは物理であり、もう一方では宇宙とは聖書である。双方は、属している文化が違うというより、住んでいる宇宙が違うし、採用している論理が違う。ヴィヴェイロスが言う本来の意味とはズレるが、このような状況も一種の多自然主義的世界と言えるのではないか。
《神による世界の創造を信じている人々にとっては、それは科学と同じレベルで存在論的な現実である。一方、科学は他の存在論の存在を容認しない。》
《(…)リベラルで多文化主義的な民主主義社会においても自然と科学に関しての相対主義は決して許容されていない。》
《(…)1900年代以降の歴史は、「ひとつの世界の存在論」に対抗しようとする勢力が存在するのは社会的、地政学的な周辺に留まらないことを明らかにしてきた。アメリカにおけるキリスト教右派の伸長とアメリカにおける反進化論主義の持続、イスラム原理主義の勃興、地球温暖化論争における温暖化否定派などは、近代世界の中心に科学に対抗し、独自の存在論を主張する強力なグループが存在し、簡単には消え去らないであろうことを強烈に印象づけた。》
《(…)「ひとつの世界の存在論」に挑戦しているのは、途上国の先住民運動のような人類学者の視点から見て望ましい他者だけではない。》
二十世紀においては、西欧・近代・科学が圧倒的に強く、事実上「普遍的価値」の位置にいたからこそ、「ぼくばっかりがあんまり威張ってたらダメだよね」という形で自ら相対化の努力を行っていた。途上国の先住民運動が西欧近代を批判する時、西欧近代は自ら進んでその批判を正当なものとして受け入れた。だが、その優位が根本的に揺らぐことで、正しさを判定する基準そのものが揺らぎ、異なる「文化」は異なる「世界(自然)」へと変質し、その間のガチの「存在論の戦争」状態になってしまった、と。
《(…)ラトゥールはドイツの政治学カール・シュミットの議論を引きながら、ここで言う戦争とは何かを説明する。シュミットは、戦争を、究極的な裁定者が存在しない状況における二者間の葛藤であると定義した。近代における存在論的な葛藤では、最終的には科学が裁定者として何が正しいかを決定し、他の存在論の過ちを一方的に正してきた。科学が最終的な裁定者となっているという点で、存在論のあいだの葛藤は戦争ではなく、いわば科学による警察活動(policing)であった。》
科学、あるいは、民主主義的な価値観が、(暗黙のうちに)普遍的な正しさという位置にいたのが、それらが「本当に」相対化されてしまったわけだ。
(ぼくはここでさらに、「存在論としての科学」とは異なる「技術の汎用性」という問題があるように思われる。存在論として科学を受け入れなくても、科学の成果である技術を利用することはできる。イスラム原理主義者が、西欧的な価値観や資本主義を受け入れなくても、その成果であるインターネットを利用して活動することはできる。存在論としての科学を受け入れなくても、技術と材料があれば核兵器をつくることもできる。科学を受け入れない人も、「魔法(悪魔の力)」として、反テクノロジー運動のためにテクノロジーを利用することは可能だ。技術は、存在論とは関係なく生の環境そのものを変える。そして、存在論から切り離され得る技術の力は、おそらく際限なく強大になってゆくだろう。)
この世界から「普遍的正しさ(普遍的存在論)」がなくなり、異なる存在論の間のむき出しの「政治」があるばかりとなる。右傾化や反知性主義の台頭を批判する人は、まだ「普遍」があると思っている(それを根拠としている)のだろうが、おそらくもっと根本的な世界の変化があるのだろう。現在進行しているのは、そういう言い方で名指されるものとは違う何かなのではないか。
(アメリカの議会では、保守派とリベラル派とでは議論すら可能でないほどに乖離してしまっているという。もはや、同じ一つの問題に対する二つの政治的態度があるというより、二つの異なる世界――存在論――の住人による抗争があるというべきなのかもしれない。)
《ラトゥールによれば、存在論をめぐる戦争において、人類学はあくまで近代的な価値と科学の擁護の立場をとるべきである。だか、それは必ずしもかつての近代主義者のように原則的な立場を取ることを意味しない。》
《(…)戦争という状況下では、われわれは望ましくない相手であっても停戦交渉相手として認めなければならない。》
《その際にラトゥールがとり上げるのは、停戦交渉を担当する外交官(diplomat)である。停戦交渉を担当する外交官は、自らの陣営の利害を守りつつも敵に配慮して、現実的な合意を探るという困難に満ちた役割を担う。和平の達成のためには、敵との妥協と状況に応じた判断が必要であり、そのためには自らと敵との双方をよく知る必要がある。さらに現実的な和平のためには原則的な立場にこだわることはできない。このことは、結果として外交官を敵からも味方からも裏切り者と見なされうる中間的で危険な立場におく。》
日和見主義者で裏切り者でもある媒介者としての外交官。デフォルトで戦争状態であるなら、原理を守って敵と戦うヒロイズムではなく、日和ってでも停戦することこそが正義ということか。日和るためには理念が必要だけど、原則主義ではダメなのだ、と。メンドクサイことこのうえないのだけど。