●ひきつづき、けいそうビブリオフィルの原稿。地味に積み重ねていって、最後のところでジャンプしたのだけど、それがちゃんと着地できているのか。『君の名は。』についてはここまでで、次回の『輪るピングドラム』に引き継がれるわけだが、この「ちゃんと着地できているか問題」も次回にあらためて問い直される。
●水野勝仁さんの「インターフェイスを読む #3 GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」」、とても興味深く、面白く読んだ。でも、どうしても気になってしまうところが一点あった。
http://ekrits.jp/2017/08/2343/
細かいところで、全体としての重要な趣旨にかかわるようなものではないので、そんなところを気にする奴もいるのかと思ってもらえばそれでいいのだけど。最後の方で、「近代的な主体」を、単一の画像に集約され、カメラや監督の視線と同一化してゆく「映画的」なあり方と重ね合わせていて、それに対し、ポストモダンな主体が、多層的なウィンドウの折り重なりを同時に示す(背後にカメラの存在しない)、PCのディスプレイのようなものだとしている。このような言い方の、後ろ半分に異論はないのだけど、前の半分が、近代絵画好きのぼくとしては、ひっかかってしまう。
一点透視図法的で、単眼的で、単一のイメージを示す映画のスクリーン(その背後のカメラ)、という「映画的装置」(実際の映画というより、モデルとしての「映画的装置」ということだろう)を、近代的な主体のありようだとする根拠は何なのだろうか、と。すくなくとも、十九世紀の終わりから二十世紀の半分以上にかけて、近代絵画は、遠近法とは別のやり方で空間を構築する」ということばかりをやってきた。マネからラウシェンバーグリキテンシュタインまで、ひたすらそういう試みであり、その成果だと思う。
それによってつくられる空間は、あきらかに立体視的であるよりも透視的であり(まさに「虚の透明性」をもつ)、フレームや空間の基底そのものを分岐、分裂させるような、層的で、雑多に重なり合う、集中させない、移ろい惑う、落ち着きのない視覚の状態によってつくりだされる。「視点と奥行き(先験的形式としての空間)」よりも、バラバラに作用する複数の平面の重なりやズレが先にあり、それが結果としての空間を生む。少なくとも、絵画に興味がある者にとって、そのような試み、そのような主体のあり様こそが「モダン」なのであって、決して、単眼的で遠近法的でカメラ的な主体が、近代的な主体なのではないという認識がある。
(おそらくこのような認識は、絵画や美術に限らず、近代の前衛的な芸術---映画も含めた---に共有されている問題だと思う。)
モダンとポストモダンの違いは、主に人と、テクノロジーや資本とのかかわりの違いであり(それは決定的に違っていると思うけど)、主体や感覚のあり様としてはけっこう連続的なのではないかと、ぼくは思う。そして、そのようなモダン-ポストモダンが、いまや終ろうとしているということが重要なのだと思う。
現代からみれば、近代絵画はまだまだ充分に分裂がなされておらず、統制がとれすぎているように見えるかもしれない。なんだかんだ言っても、一枚のキャンバスの上に描かれているし。しかし、たとえばフーコー的に考えても、カメラ的、デカルト的な秩序立った主体性はむしろ近代以前の、古典主義の時代のもので、近代は、古典主義的な秩序が壊れたことによってはじまる。
この点について(この日記で前にも引用したことがあるけど)、ラマールが『アニメ・マシーン』で、スーパーフラットのマニュフェストを批判している部分に分かりやすくまとめて書かれている。
スーパーフラット論は、幾何学的遠近法を西洋の近代的な主体性に結びつける理論が近代論の一つにすぎないことを忘れている。マーティン・ジェイは、近代の合理的で道具的な主体と遠近法とのつながりを一貫して強調しているが、その彼も、近代の視覚体制が他にもいくつかあることを認めている。(…)ミシェル・フーコーデカルト的な主体を、近代よりもむしろ古典主義時代と結びつけている。フーコーは、近代的な規律訓練の出現を規定するものは、ルネサンス時代の知の普遍的な格子の崩壊であると論じている。ジョナサン・クレーリーは、視覚の歴史という領域でフーコーのアプローチに立脚しつつ、一九世紀の視覚理論が、幾何学遠近法とカメラ・オブスキュラと結びついていた古典的なデカルト的主体を放棄したと見ている。(…)メディア理論家のフリードリッヒ・キットラーは、近代のメディア・ネットワークは、主体の超越性の強調によってではなく、科学的な器具や、記録と観察のテクノロジーに比べて人間の知覚は誤りやすいという感覚によって特徴づけられると論じている。要するに、これらの理論家たちは、その相違にも関わらず、近代の視覚体制とメディア・ネットワークが、普遍的もしくは超越的な主体(一点透視図法の、固定した視る位置のような形で)の産出を通じて機能しているわけではないという点で、意見が一致しているのである。》(『アニメ・マシーン』P152)
●一点透視図法的、カメラ的な主体から、一足とびに、マウスとディスプレイで複数のウインドウを移動するGUI的分裂した主体への変化、みたいなまとめ方をみてしまうと、(ルネサンスポストモダンを直結しているみたいな感じで)近代絵画の試みのすべてがまるっと歴史から忘却されてしまっているように感じてしまって、ちょっとまって、近代絵画のことを忘れないでいてあげて、と、つい言いたくなってしまうのです。