2020-06-06

●引用、メモ。ティム・インゴルド『人類学とは何か』第二章「類似と差異」より。

《これは、約五〇年前にアメリカの人類学者クリフォード・ギアツによって表明された、人間の条件について繰り返し言われる見解であるが、その中でギアツは、「われわれ人間に関してもっとも意味のある事実の一つは、われわれはすべて何千種類もの違った生活を営む自然の装置をもって出発するが、結局はただ一種類の生活を営む結果に終わるということであるかもしれない」と結論づけた。この見方では、人間の生とは、徐々に能力を満たし可能性をせばめていくことを伴いながら、普遍から個別へ、自然に与えられるものから文化的に獲得されるものへと動いていくものということになる。しかし、私たちの意見は真逆である。生とは、閉じる動きではなく開いていく動きであり、目の前に置かれているかもしれない限界を絶えず乗り越えていくものである。したがって、身体技法や心の習慣を含め、生のための私たちの装置は、すでに出来上がったものなのではなく、他者とともに、あるいは他者と並んで行う行動のるつぼの中で、常に鍛えられるものなのである。例えば、歩いたり話したりする子どもたちの能力は、先へ進み、仲間たちと歩調を合わせ、彼らの注意を引き、自分を理解してもらおうとする無数の努力のまっただ中で、成長する身体のうちに発達していく。もし、ほとんどの人が成長し、歩いたり話したりするようになるのだとすれば、それは二つのことをする能力が、最初から与えられている能力によって補強されるからではなく、即興的に動いたりコミュニケーションを取ったりすること---環境の条件下で、また仲間たちの助けによって---が、収斂する傾向にあるからだ。人間の自然/本性(ネイチャー)に対する問いへの答えは、この収斂の中にあるのであって、人々が最初から共通にもっているものの中にはない。》

《それゆえ、人間の生は、自然の中で統合されて始まり、文化によって分割されて終わるのではない。(…)すべての幼児が異なるのは、その固有のゲノムのためではなく、個々の幼児が、共同体の生に没入し環境と関わり合っている未来の母親の子宮の中で妊娠形成期を経験した後に、特定の時空の中に生まれ落ちるからである。刻一刻と変化するこの世界に投げ出された私たちは皆、他者の生の様式に合流し、そして分岐する---むしろ河川デルタの流れのように水流の流れを断ち切り、そのときその場からまた進み続けていく---以外にないのである。合流と分岐は、生のサイクルが続く間、手を取り合って進んでいく。それゆえ、生まれた時は皆同じであったように、生の終わりに近づくにつれ、互いに違いがなくなっていくのだ。》

●関係論的な自己同一性と、属性としての自己同一性。

《私たちは異なるモノを、つまり経験や見解、技能などをテーブルに持ち寄るからこそ、それは共有されるモノとなる。》

《私たちが共同体に属しているということは、私たちがそれぞれ違っていて、与えるものをもっているからである。それゆえ、共同体における自己同一性とは、根本的に関係論的である。私たちが誰であるかは、集合的な生のもちつもたれつの中で、どこに自分たち自身を見い出すのかということの指標である。しかし、この自己同一性の感覚は、市民の間の差異を許容せず、むしろ義務と権利の平等を要求する近代国家の構成と厳しく対立する。市民にとって、自己同一性とは、他者や共同体や場所に属することに関するものではない。それむしろ、あなたに属するという属性のことであり、あなたが所有し、また盗まれることすらある権利や所有物のことである。自己同一性の概念の潜在的な起爆力と政治的混乱を引き起こす能力は、この概念の二つの意味すなわち関係論的な意味と属性的な意味の矛盾にある。それは、共同体が国家権力の脅威にさらされていると感じる時に現れる傾向のある矛盾である。そのような時に人々に求められるのは、属性的な面で差異の感覚を主張することだ。このことは、自分たちの属する内的に継承された性質の外向きの表現として、所属の感覚を引き出す関係性そのものをつくり直すことである。それは、共有された遺産あるいは文化的な本質を守るために、彼らに対抗して一致団結する「私たちのような人々」として、共同体の「私たち」をつくり変えることなのである。エスニシティという現象のルーツは、この中にある。》

●西洋人は存在しない。

《人類学のパラドクスの一つは、人類学が、非西洋の人々の生と時間について多くのことを言う一方で、西洋の人々についてはほとんど何も言わないということである。たいていの場合、西洋は特定の時空を生きている人々の経験の特殊性を際立たせるための引き立て役として引き合いに出される。西洋は、「外部世界」、「より広い社会」、あるいは単純に「多数派」である。イギリスやアメリカ合衆国のような、名目的に西洋社会と名乗っている国々の住民でさえ、人類学のレンズを通して見るならば、完全に非西洋的に見えてしまう。というのは、実際には、西洋人はいまだかつて存在などしてこなかったからである。哲学者も政治家も、近代の普遍的な価値を声高に叫ぶが、実際にそれにのっとって生きるようなことは不可能なのである。合理的で徹底的に自己本位であるコスモポリタンは、どこにも誰にも属していないのであり、その点で、近代西洋人とは想像の産物である。》