2023/11/06

⚫︎『遊動論』(柄谷行人)を読んだ。柄谷を読むのは十数年ぶりという感じだと思う。新書だしサクッと読めるかと思ったのだが、動揺させられた。もう十年前の本だが、いわゆる「柄谷の読者」はこの本をどう受けためたのだろうか(怖くて、感想や書評を検索できない)。第一章から第三章、そして付論については、柄谷行人の本として普通に受け止められるのだが、第四章をどう考えればいいのか。

おそらくこの本は、『共同幻想論』(吉本隆明)と『千のプラトー』(ドゥルーズガタリ)に対する対抗言説として意識されているところがあると思う。(柳田國男をモチーフにしているという共通点を持つ)『共同幻想論』では、過去に原始共産制のようなユートピア的な状況があったという説を否定して、対幻想に基づいた血族的な集団としての家族を共同体の基礎に置く。それに対して『遊動論』では、必ずしも血縁関係に基づくわけではない狩猟採集民による漂白的バンド(山人)を、平等と協同自助が実現されている理想期な共同性の始原として考える。そして、『千プラトー』における、(帝国へと発展していく)ノマド的な遊動性に対して、それとは異なる、(「国家」へ至ることを拒否する)狩猟採集民的な遊動性があるのだと主張する。

このような議論は、新しい人類学の動向を根拠としたアナーキズムへの再注目という、最近の目立ってきている流れとほとんど重なるように思われる(国家を拒否する自律的な小さな集団=組合による協同自助)。柄谷が最近の流れに寄っていったということではなく、柄谷はNAMの頃から同じようなことを言っていたのだし、NAMの頃は荒唐無稽な話にみえたものが、最近の人類学の成果によって、具体像とまではいかないにしても、ある一定のイメージを持つことができるようにはなったということだろう。

この本では、国家(というより「定住」か)が成立した後で、国家(定住)を拒否したり国家(定住共同体)を追われたことで遊動的な集団となった者たち(山民)と、国家(定住)以前にあったと考えられる、現在からは「抽象力」によって遡行するしかない原初的な遊動的集団(山人)を分けて考える。前者において働いているのが、交換様式Aとしての互酬性の原理であり、それは(抑圧されたものの回帰として)「神の命令」のように強いられているものだが、後者における平等な分配は「純粋贈与」であり、倫理的に強いられたものではないとする。この本以前の議論では、交換様式Aである互酬性が、高次元化して回帰するものが(来るべきものとしての)交換様式Xだとされていたと記憶しているのだが、ここでは互酬性ではなく純粋贈与こそが、交換様式Xとして回帰するものとされている。互酬性が精神分析的、神経症的な論理で作動しているのに対して、純粋贈与は神経症的な抑圧とは無縁なものとしてイメージされている。純粋贈与は「愛」によって作動する、と。

ここで「愛」が、普遍的な神への愛、あるいは世界への愛ということだと、それは「国家」につながってしまう。だから国家に抗するために、この愛は「氏神(祖霊)」への愛(氏神への信仰)、「家」への愛、「祖先」への愛であることが必要だということになって、第四章の「固有信仰」という話になる。ここで「ん…」となる。もちろん、柄谷は単純な「保守」にはならないように、とても慎重に議論を重ねている(たとえば、保守は多様な氏神たちを国家神道へと統一しようとする)。ただ、アナーキズムの原理、「弱いもの」につくための原理(というか根拠)としてあるのが、氏神や家や祖先となってしまうと、それをすんなり受け入れるのはけっこう難しい。

(この本で「固有信仰」として語られる「祖先」や「死後の魂のありよう」のイメージが大江健三郎の小説にとても近いことは興味深い。読みながら、ほとんど大江じゃん、と思う。)

こここで「固有信仰」の中に見出される「家」のイメージは、必ずしも血縁関係に基づくわけではない狩猟採集民による漂白的バンドと共通するものであることが示されている(狩猟採集民のバンドは人の出入りがけっこう自由だったとされる)。日本の家は父系制でも母型制でもなく双型的であり、血縁は父方でも母方でもどちらでもよくて、養子縁組も柔軟だから、「家」は「出自」による縛りの緩い「場」であるとされるし、オヤとコは血縁よりも元は親分・子分を指す言葉で「家」には「労働組織」である側面が強くある、などとされる。そして、互酬性は共同体と共同体との間に働く原理であり、「家族内(身内)」においては純粋贈与が成立するのだ、と。とはいえしかし、うーん、「家」かあ…、となる。

狩猟採集的バンドではなく「家」というイメージが必要なのは、そこに過去(そして未来)との関係が含まれていなければならないからだろう。狩猟採集民は「蓄積」をせず、故に過去も未来も持たないからこそ「平等」だった。だが「家」というイメージで捉えられる共同性には過去としての「祖先」、そして未来としての「子孫」が含まれる。祖先には未来に対する純粋贈与(無償の愛)があり、子孫にも祖先(過去)に他する無償の愛がある。ここで示される、世代を超え、生死を超えた交換=純粋贈与という話はとても興味深い。柄谷はここに人類学的な「対称性」以上の意味を込めようとしていると思われる。戦死した若者は子供がいないから「先祖」になることができない。だから戦死者の養子ととなることで「(あくまで氏神的な)先祖」として戦死者を弔おう、と。柳田國男が『祖先の話』で示した(国家的な慰霊に抗する)このようなヴィジョンは共感できる。たとえばぼくは画家としてセザンヌの養子となり、セザンヌの作品から無償の贈与を受け、自分でも制作することでその幾ばくかを返そうとする。そこに絵画という信仰=愛とそれを介した交換が成り立つ。あるいは、ある映画作品に感銘を受けた者が、のちに、その映画の修復のために無償で奔走するとか。今、我々が行っている(自分が生きているうちに報われるとはとても思えない)「未来への純粋贈与」は「祖先」への純粋贈与として行われている、と考えることもできる。既に亡い者や未だ無い者との間の交換という構想が「祖先」という概念に含まれている。ここで成立しているのは、現在の他者との関係においてある(倫理的に強いられた)互酬性とは異なる、愛を媒介とする交換だと考えられている。

(他方で、「家」において先祖から子孫へと伝えられる、世代を超えた解き難い呪いや憎悪の伝播・交換というものも確実にあることを忘れるわけにはいかない。)

ここで「氏神」や「家」や「先祖」のイメージを大きく刷新する必要がある。少なくとも、宗教右派が重要視する「家」との明確な違いが示されなければならない(この本はその意味でけっこう危ういように思われる)。が、同時に、これらの概念を柔軟にしすぎると、アナーキズム的小集団(自律的な、組合的協同自助集団)が国家へと吸収されたり、拡張されていくのを抑える原理が効かなくなる(たとえば、ぼくはあくまでセザンヌマティスとの養子関係、共通した氏神を持つことにおいて画家なのであり、別にアートという国の国民ではない、とするにはどうすれば良いのか)。また、あり得べき交換形式は、まったく馴染みのない新しい形ではなく、過去からあり、既にある、何かしら人々に「馴染みのある」形象に基づくことが必要だとも考えられているのだと思う(この点では共産主義、あるいはNAMの失敗への反省があるのではないか)。

この本で柄谷行人は、交換様式Xへとつながり得るものの「非常に危うい(かつ、極めてざっくりとした)見取り図」を、ほぼ初めて示しているのだと思う。だがそれはすんなりと飲み込むことはできないものだ。しかし反故にもできないもので、故に、おそらく何度も反芻しなければならなくなった。