●『ユリ熊嵐』第四話。今回は、幾原ワールドのエッセンスみたいな話だった。「断絶の壁」の外へ向かう二人(二匹)の後ろ姿のカットを観て、「ウテナ」の最終回を思い出したりした。
お姫様幻想とその破綻、無償の贈与、その贈与が果てしなく反復的に回帰する約束となること、反復する約束(≒トラウマ)に把捉されること、その拘束の中から「何か」が芽生えてくること、異なる「約束=拘束」のなかにいる二人が出会うこと、その出会いによって「約束=拘束」が新しい次元に移行すること、そこでようやく「愛」の契機が生じること…。
(たとえば「ピンドラ」では同様の表現が、真砂子において見られた。「ユリ熊」四話で、繰り返し、死後もなお戻ってくる「弟」(無償の贈与≒トラウマとは、ゾンビのようなものだ)は、「ピンドラ」においては、病気で死にそうな真砂子の弟と、「死なない男」である彼女の祖父として、二つに分かれてあらわれていた。ユリの父=彫刻刀も、構造としては同一だが、表現としては弱かったと思う。)
(「ウテナ」でも、毎回冒頭に「王子様との約束(無償の贈与≒トラウマ)」の場面が繰り返し提示されていた。)
(あるいは、「反復」は、幾原作品が構築される時の、もっとも基本的な原理の一つでもある。あらゆるところに、あらゆる次元で反復がある。言葉、仕草、音、色、形、儀式、出来事、場面、構図、ある人物から別の人物へと役割が移行すること、シンメトリーもまた、画面の左と右とで反復が起っているとも言える。)
幾原作品は、あくまで論理的に組み立てられる。「るる」というキャラクターは、すぐれたキャラクターデザインと、百合で熊という要素などで、もうすでに(表現の効果としては)十分成り立っている。それでもなお、彼女がなぜそのように行動するのかという根拠が(いわば「キャラの思想」が)示されなければならない。それは、彼女のキャラとしての可動域を狭めてしまうかもしれないし、作品としては説明的になって弱くなってしまうかもしれない。それでも「根拠」かちゃんと示されなければならない。
実際、幾原作品で「たとえ話」が出てくると、作品が妙に説明的になってテンションが下がることがよくある(四話も、そうなりそうな気配はあったけど、踏みとどまったと思う)。しかし、それでも「根拠」は示されなければならない。
幾原作品には、これみよがしに、暗号、ミスリード、ギミックなどの「効果」があふれているが、そうだとしても、その作品は効果=表現としてある以上に、一つの論理の形としてある。ギミックや効果は、論理的に組み立てられている、と言うこともできる。あるいは、ギミックや効果の流れとは「別の流れ」として、論理の一貫性が存在する、というべきか。
だから、(たとえ表現として弱くなったとしても)筋は通されなければならないのだと思う。