2020-06-05

●引用、メモ。ティム・インゴルド『人類学とは何か』第二章「類似と差異」より。個体発生と歴史について(「本能」は「発達」の結果であって原因ではない、あなたが歩くようになるということは、あなたが歩くしかたで歩くようになることであって、二足歩行の普遍的な能力に対して「あなたの歩きという属性」が付け加えられるということではない)。

《今でも、文明の病の多くは、適応と試練という二つの不整合のせいにされることが一般的である。例えば、甘い食べものを本能的に好むことは、自然界に食料が限られていた時には適応的であったが、今日の糖質過多の栄養環境では肥満や糖尿病の急増の原因として、広く非難されるようになっている。また、攻撃性を示すことは、祖先の狩猟採集民にとっては、他の方法と比べて害を及ぼすことなく衝突を回避する、相対的に無害な方法だったかもしれないが、今日では猛スピードで走行する車や弾道ミサイルとも結びつけられ、車のあおり運転から、差し迫った水爆戦争の脅威に至るまであらゆることの原因とされ避難されている。》

《しかし、このように本能に訴えることは、一つの単純な理由から、根本的に間違っている。甘いものが好きであるという特性、あるいは(男性間の)攻撃性を示す傾向や蛇を恐れることさえ、誰もが生まれながらにしてもっているわけではない。それは、発達するのだ。それが確認できるライフサイクルのどの段階においても---幼少期であれ、あるいは小児期、青年期、成人期、老年期であれ---、本能は特定の環境における成長と成熟の過程を通じて出現するのだ。専門用語を用いるならば、この過程は個体発生として知られている。他のあらゆる種の生きものたちと同じように、人間には、個体発生的な発達の過程の中に現れるのでない属性や、能力や習性のものは何もない。繰り返すが、遺伝的決定の概念と同じように、私たちがすることを本能へと帰するのは、発達過程の結果をその原因と読み替えてしまうことになる。》

《実際の生においては、環境の中で出くわす条件が、問題となっている諸個体に本来的に備わっているものと同じように、個体発生において形成的な役割を果たしている。これは、「自然/本姓(ネイチャー)」よりも「環境因子(ナーチャー)」を優先させるということではない。人間存在が遺伝子によってつくられているよりもむしろ環境によってつくられていると言いたいのではない。また、それぞれの環境の個々の貢献を軽視するとか、逆にかなり環境に重きを置くとかいうことですらない。いのちをもつ他の生きものたちと同じように、人間は内的な要因と外的な要因、すなわち遺伝子と環境の間で起こる相互作用の産物ではない。人間とは結果ではなく、一区切りなのである。人間は、人間が直面する条件---過去に自分自身と他者の行動によって累積的に形づくられた条件---に、あらゆる瞬間に反応しながらつくられる自らの生の産物である。》

《したがって私たちは、人間の差異とは、環境の経験のおかげで私たちが最初から共通にもっている普遍の土台の上に加えられるものだと考えることはできない。人間の生は、一から多への道行きではない。あるいは、しばしば強調されるように、自然/本姓(ネイチャー)から文化(カルチャー)への道行きでもない。》

《例えば、地面の質や、(履いているのであれば)履き物の組成と、年齢や性別・身分の違いから、ふさわしい歩き方がどのようなものであるのかという変数によって、人はさまざまなしかたで歩くようになる。しかし、これらの差異は、最初から何らかのかたちで組み込まれた、二足歩行の普遍的な能力に対して付け加えられるものではない。あなたが歩くようになるということは、あなたが歩くしかたで歩くようになることである---さらには、それは決して完成することがなく、ある部分は他者の支えや交わりによって、またある部分は絶えず老いていく身体の変わりゆく生の力学に応じて、生涯を通じて続いていくプロセスである。私の父は、自分は四つ足で生まれ、最初二本足に、次に杖を持って三本足に、最後は歩行器を付けて六脚の昆虫のようなものへと進化したと、よく言ったものだ。こうした運動能力の変化は、ある環境における実戦と訓練を通じて父の身体の上に刻みつけられていたのではなくて、身体の中で---作業様式の中で---増大したのである。このように、身体性と個体発生、特定の技能の獲得と人体の発達は、文化的な条件づけと生体の成長の分割の両端に分かれているのではない。それらは同じ一つのものなのだ。私たちの身体とはすなわち私たちのことであり、私たちは身体なのだ。身体が老いれば、私たちも老いる。》

《生を進めながら人間存在をつくり続けることは、けっして終わることのない任務である。私たちは絶えず自分自身を創造し、互いを創造し合っている。この集団的自己形成の過程が歴史である。私たちが行っている事柄のうちに、次世代が成熟する条件を確立していくことによって、私たちは歴史的に私たち自身を形成している。こうした条件が変わると、私たちもまた変化する。私たちは、先人の知ることのない属性や能力や適正を発達させている。》

《車輪という歴史的発明が一つ起こったおかげで、今私たちにいったい何ができるようになったのかを考えてみよう。一つは、自転車に乗ることである。自転車に乗ることは身体の技術であるが、今日では非常に広く普及しているため、私たちは、歩くのと同じくらい人間が自転車を漕ぐことをほとんど自然なことであると考えている。しかし、自転車に乗れるようになるための技術は、自転車や、二輪で走れる道、後押ししてくれる誰か---たいていは親---といった必要な条件がそろってはじめて発達しうる。そして、発達のための条件がもはや存在しなくなれば、私たちは能力も失うことになる。今日では、手書きをする能力がない子ども世代が育ってきている。(…)したがって、現在の私たちと同じような人たちが過去や未来に住んでいると考えるのは大きな間違いである。ちょうど私たちが遠い昔の祖先と体の仕組みとしては同じでないように、私たちの遠い子孫も私たちと同じではないだろう。》