●「近代科学」がはじまったのが17世紀だとして、それからまだせいぜい400年に満たない時間しか経っていないのに、地上では世界中のコンピュータがネットワークで繋がって人間の無意識が日々データ化され、空には国際宇宙ステーションが回っているという、この変化の速さを考えると恐ろしくなる。「近代科学」というウイルスはなんと恐ろしいものなのか、と。
だけど、「近代科学」が成立するためには、その条件として「数学」が充分に整備されている必要があったということを考えれば、「近代科学」が決して「西欧」「近代」から突然現れた特異なものというわけではないことになる。
たとえば『数学する身体』(森田真生)には次のように書かれている。
《(…)古代ギリシア数学の大きな特徴は、実践よりも理論を尊重し、計算よりも幾何学的論証を重視する姿勢である。一方、インド起源の数学は、実用的な関心の中で、計算を重視する傾向が強かった。これらの異なる伝統がイスラーム世界で雑じり合い、結果として実践性と理論を兼ね備え、数と幾何学の双方に関わる。独自の数学文化が育まれていく。》
《一四世紀にはイタリア各地に「計算学校」という寺子屋風の学校がつくられ、「計算教師」が「計算書」を教科書にして、子供たちに計算法や代数的な考え方を教授するようになる。(…)
(…)アルジャブルと現代の私たちの知っている「代数」の間には、一つ決定的な違いがある。アルジャブルは、少なくとも一二世紀以前には、一切の記号を欠いていたのだ。つまり、完全に自然言語だけで展開されていた。》
《(…)一六世紀には、活版印刷技術の普及も手伝って記号法の統一が進み、私たちが今も使っている+、−、×、=、√などのお馴染みの記号が出揃ってくる。》
《記号化をさらに徹底させて、代数を記号操作による「一般式」の研究にまで洗練させたのは、フランスのフランソワ・ヴィエト(一五四〇―― 一六〇三)である。》
《それ以上に重要なのは、彼(デカルト)が記号代数の力を借りて、古代ギリシア以来の幾何学的な問題を統一的に解決するための「方法」を開発したことである。(…)特に、同じ量を異なる仕方で表現することができれば、二つの量が統合で結ばれた「方程式」が得られる。すると、もとの作図問題は、それに対応する方程式を解くという代数的な問題に還元される。幾何学的な問題を代数的な計算に還元するこの一連の手続きは、古典的な幾何学の問題を統一的に解決する、普遍的な「方法」となった。》
《ここ(デカルト幾何学』)で展開された方法によって数学者たちは、図を用いた論証の代わりに、記号を用いた計算という、強力な手段を手に入れ、数学に対するより普遍的な視座を獲得したのである。》
理論と幾何学、証明が中心のギリシア数学と、実践と数、計算が中心のインド数学が、イスラム世界で融合し、それがヨーロッパに伝わって、自然言語とは異なる計算言語として代数的に一般化され整備されるには17世紀を待たなければならなかった。そして、この後にライプニッツニュートン微積分がくる。おそらく、それによって思考し、計算し、記述することが出来るようになってはじめて近代科学(古典物理学)が可能になった。そう考えると近代科学も、人類が少しずつ、少しずつ獲得していったものの上に乗るかたちであるのだなあと思う。
その上で、近代科学による世界の変化の異様な速度を考えると、カーツワイルの「収穫加速の法則」という考えがリアルに感じられる。収穫加速の法則とは《一つの重要な発明は他の発明と結びつき、次の重要な発明の登場までの期間を短縮し、イノベーションの速度を加速することにより、科学技術は直線グラフ的ではなく指数関数的に進歩するという法則》(ウィキペディア)。この「法則」があらゆるジャンルに当てはまるかは疑問だが、計算言語に基礎をもつ科学や技術には当てはまりそうだ。
17世紀のヨーロッパで、人が自然に獲得する自然言語(および、そこから派生して発達した言語)とは異なる、人工的で形式的な計算言語が成立したということになろう。そして今や、その計算言語によって計算するコンピュータによって、自然言語を処理する可能性が試されている。人工知能による完全な自然言語処理がもし可能になるとすれば(具体的には、チューリングテストにパスできる人工知能が可能になったら、ということになろう)、新しい人工言語としての計算言語が、古い言語としての自然言語を包摂したと言うことができるだろう。人工言語自然言語を完全に模倣できる(代行できる)、と。
自然言語(「書き言葉」はまた別だが)は、特に学習しなくても、言葉を喋る人間たちの間で育てば、ほとんどの人が自然に難なく習得できる。対して、論理や計算は、教育され、学習しなければ獲得できない。それは、人がもともと持っているものではなく、人類の歴史のなかで、少しずつ発見され、発明され、改良されたものの蓄積として成立しているからだろう。だから、前者が後者によって包摂されるというのは、人類の知の歴史的蓄積が、人がもともともっていたもの(および、それをベースとして発展したもの)を超えるということだろう。それは、人工知能が人間を超えるというより、自然としての人間が、人工としての人間に追い越されるということではないか。
(自然を基盤として人工がある、から、人工を基盤にして自然がある、へとひっくり返る。)
実際にそれが可能なのかは分からない。しかし、ここ400年の急激な世界の変化は、(幾何学を代数的に書き換えることで一般化可能というような)計算言語の恐るべき汎用性によって引き起こされていると言える。しかし、我々の脳自体は、何万年も前からそのままで変わっていない。なので、新しい言語と古い言語との狭間で、その対立や矛盾や軋轢のなかで、引き裂かれた状態で生きていくことになる。