●おお、ドノソの『夜のみだらな鳥』が水声社の「フィクションのエル・ドラード」シリーズから出るのか。新訳ではないのだろうけど。
http://www.suiseisha.net/blog/?p=8211
ぼくの持っている「集英社・世界の文学」版は、高校生くらいの時に古本屋で500円くらいで買ったやつ。八十年代から九十年代にかけて、「世界の文学」シリーズはどの古本屋にもごろごろあって(というか、その時代は古本屋がほんとにたくさんあった)、かなり粗末に扱われて、100円から500円くらいの値段で売られていたと記憶している。でも、ドノソの巻はなかなかなかった。だから、買えたのは、たまに神田にも行けるようになった浪人時代か、大学に入ってからだったかもしれない。この小説の存在は、ニューアカ・ブームの時に栗本慎一郎上杉清文などが絶賛していたので十代の中頃から知っていたから、記憶が捏造されているかも。ボルヘスやガルシア=マルケスが表ラテンアメリカ文学だとしたら、ドノソは裏ラテンアメリカ文学というイメージで、激レアな感じだった(あくまで、当時の日本の文脈では…、というか、当時のぼくの頭のなかでは…、という意味でだけど)。
●メモ。「自然科学における数学の理不尽なまでの有効性について」(ユージン・ウィグナー)1959年5月11日、ニューヨーク大学におけるリチャード・クーラント記念数理科学講演
http://ch.nicovideo.jp/niconicoffee/blomaga/ar1125915
《第一の点は、〈数学の概念は、まったく予想外のさまざまな文脈のなかに登場してくる〉ということ。しかも、予想もしなかった文脈に、予想もしなかったほどぴったりと当てはまって、正確に現象を記述してくれることが多いのだ。
第二の点は、予想外の文脈に現れるということと、そしてまた、数学がこれほど役立つ理由を私たちが理解していないことのせいで、〈数学の概念を駆使して、なにか一つの理論が定式化できたとしても、それが唯一の適切な理論なのかどうかを、私たちは知ることができない〉ということ。いうなれば、私たちはこんな立場にいる。ある人が、一束の鍵を手渡されて、幾つものドアを次々と開けてゆく。すると、いつも一つ目か二つ目の鍵でドアが開いてしまう。 はたして、鍵とドアの組み合わせは一意的に対応しているのかどうか、疑わしく思うようになってしまうのだ。》
《第一の点は、〈数学は自然科学のなかで、ほとんど神秘的 mysterious なまでに、途方もなく役立っているのだが、そのことには何の合理的説明もない〉ということ。第二の点は、〈数学の概念の、まさにこの奇怪な有用性 uncanny useflness のせいで、物理学の理論の一意性 uniqueness が疑わしく思えてしまう〉ということ。》
●「訳者より」より。
《タイトルと問いと結論が一緒です。「物理学の法則を定式化するさいに、数学という言語が適切であること。この奇跡は、私たちの理解を超え、また私たちには分不相応な、素晴らしい贈り物である」。
したがって、この論文の趣旨は、この奇跡の輪郭をできるだけ具体的になぞってゆくところにあります。数学がなぜこれほど役に立つのかは、あくまで「 unreasonable = un〔否定〕+ reason〔根拠、理性、妥当性〕+ able〔適する〕=理由がない、人間の理解力を超えている、桁外れである」にとどまります。そしてそれゆえに、物理学の一意性への疑いも晴れません。
ウィグナーはこの奇跡に〈認識論の経験則〉という名前を与えます。数学によって自然法則を定式化すると、なぜかそれが適切であり正確であるという奇跡が繰り返し何度も起きるということ。この経験則への信頼がなければ、今日の物理学はありえなかったし、また今後も前進しえない、と。》
●再び本文より。数学は本来、「現実」などとは無関係(そんなものはまったく考慮せずに)につくられている。にもかかわらず、「理不尽なまでに」自然法則の記述にかんして有用である。なぜか分からないが「自然の法則は、数学という言語で書かれている」のだ、と。
《マイケル・ポラニーは『個人的知識』(シカゴ大学出版、1958年、p.188)で、こう述べている。「数学の最も明白な特徴を認めることなしに数学を定義する、などということはできない。それなのに、我々がそこから目を背けているせいで、こうした困難〔「数学とは何か」を定義することの難しさ〕の全てが生じている。数学の最も明白な特徴とは、面白い interesting ということである」》
《もっと高度な数学的概念になってくると、そのほとんど――複素数、環、線形演算子、ボレル集合などなど、ほぼ無限に列挙できるけれども――は、数学者が、自分の独創性 ingenuity と、形式の美しさへの感性 sense of formal beauty を誇示するため、具合のよい題材となるように考案したものなのである。もっと言えば、そういう高度な概念の定義をするときにこそ、それを考えた数学者の独創性が、まず最初に実演されている。〈こういうふうに定義すると、面白くて独創的な考察をいろいろと適用してゆくことができる〉と理解して定義しているのだから。》
《私たちが〔現実の世界で〕経験することのなかには、複素数などという量を登場させるようなものは全然ないことは間違いない。むしろ、もし数学者の誰かに、「複素数なんて、どこが面白いんですか?」と尋ねたりしたら、その数学者は少々憤慨して、〔現実への適用例ではなく、〕〈方程式論 the theory of equations 〉や〈べき級数 power series 〉、そして〈解析関数 analytic functions の全般〉といった分野における、たくさんの美しい定理を挙げることだろう。それらはみな、複素数の登場によって生まれたのだから。数学の天才たちが成し遂げた、最高に美しい業績の数々。数学者なら、これを面白く思わないはずがないのだ。》
《数学は、道具として以上の、至高の役割をも、物理学のなかで演じている。それは、応用数学の役割について論じるなかで、〈自然法則が、応用数学を適用できる対象であるのは、そもそも数学という言語によって定式化されているからである〉と述べたときに、すでに前提されていたことである。〔すなわち、数学の至高の役割とは、〕〈自然の法則は、数学という言語で書かれている〉という〔ことであり、この〕言明は、300年も前に正当に述べられている(ガリレオの言葉とされている)。この言明は今日、かつてないほど正しさを増しているのである。》