2019-11-10

●『この世界の片隅に』(片渕須直)について講義をする予定があるので、『この世界の片隅に』(こうの史代)を読み返す。

この世界の片隅に』(片渕須直)がすごい作品であることは間違いないのだけど、原作を読んでしまうと、過不足のない形で成立しているのはやはりオリジナルの方で、アニメ版は決定的に重要なものを欠いているのではないかという感じを受けてしまう。これはあくまで「原作」を読んだことの遡行的効果であって、原作を読まなければそんなことは思わないのだが。

(決定的に重要なものとは、勿論、原作ではすずさんの分身であるかのように描かれている、リンさんをめぐるエピソードのことだ。だから、リンさんりエピソードを追加した『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』がつくられなければならなかったというのは納得できる。しかし、一度完結した作品に、新たに何かを付け足すというのはとても勇気のいる---リスクの高い---ことだと思う。下手をすると、前につくったものも含めてすべてを台無しにしてしまいかねないから。)

とはいうものの、アニメ版によって、この『この世界の片隅に』という物語に、感覚的な強さと精度、そして歴史考証的な高い解像度が付け加えられ、もともとの物語に含まれていた潜在的可能性の別の次元が開示されたことは間違いないだろうと思う。

よく、原作とそれが映画化されたものは「別物」だということを言うし、その言葉が当てはまる場合も多いだろう。しかし、『この世界の片隅に』においては、原作とその映画化されたものとは、並行的でありながらも、互いに影響を与え合っているという関係にあるように思う。

勿論、まずオリジナルがあって、それがその後に映画化されるのだが、しかし、既にアニメ版『この世界の片隅に』が出来てしまった後は、あたかもそれがはじめから同時並列する二本の線としてあって、互いを触発し合うことによって、その効果として『この世界の片隅に』と呼ばれる(そのどちらか一方には還元されない)フィクションが立ち上がっているかのように感じられる。

(そのような、並行的緊張関係が成り立っているのは、アニメ版『この世界の片隅に』の方に決定的な欠落---リンさんをめぐるエピソード---があるためだ、ということも考えられる。アンバランスによってかえって、相互の干渉性が高まっているというような。そうであれば、『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の完成によって、並行関係に変化が生じることも考えられる。)