●(ちょっと昨日のつづき)作品そのものが内包しているものの大きさ、その作品がみている夢の大きさや遙かさと、作品が「描いているもの」の大きさとは、まったく別のものだ。そこに、作品というものの本来的な抽象性がある。卓上の林檎を描いた絵より、広大な風景を描いた絵の方が「大きい」などということはないし、日常生活を描いた小説が、宇宙の成り立ちや人類の未来を問題にした小説より「小さい」ということもない。どちらにしろ、作品とはこの世界のなかにある、フレームで区切られ、そこで構築された小さな領域に過ぎず、その大きさとは、(昨日書いたことと関係するが)、その内在性のなかで、内在的な条件をいかに超え出ることが出来ているか、ということによってしか測られない(「抽象性」とは、内在的に内在性の条件を超え出ようとする指向性ことであって、メタレベルに立った上での操作ということではない)。
貧しさとは、要素や財産の少なさのことではない。要素の次元で、それをいくら豊かにしていったとしても、常に何かが足りないということだ。「常に何かが足りない」要素を組み合わせて、その条件それ自体を超え出てゆくことこそが問題となる。アートかエンタメか、アンティミスムか社会派か、小品か大作か、ミニマリズムマニエリスムか、などは、個々の趣味や資質やその時々の条件の問題でしかない(そこにこだわるのはたんに「党派」性でしかないだろう)。誰でもが、その時の自分に可能な条件のなかでそれをすれば(それを超え出ようと努めれば)良いのだし、それ以外にやりようはない。
チェルフィッチュのチケットを予約していたのになかなか届かないなあと思っていて、そのまま忘れていたら、もう明日なのにまだ届かないので、申し込んだときに返ってきた確認メールを改めて読んだら、振込先への入金を確認次第チケットを送ると書いてあった。しかしぼくは「代引き」で注文していて、代引きだから、宅配の人がチケットを持ってきた時に、それと引き替えに代金を払うものだと思い込んで(キャッシュカードを持っていないので、ネットバンクに入金とかめんどくさいのだ)、ただ待っていたのだった。
もうちょっと早く気づいて問い合わせすればなんとかなったはずで、自分の「スケジュールに関するどんぶり勘定」をどうにかしないと、と常に思いつつ、なかなかどうにもならない。この日記にこんなことを書くのは一体何度目なのか !
岡田利規のあたらしい戯曲集『エンジョイ・アワー・フリータイム』に収録されている「ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶」の第三部「お別れの挨拶」がすごくよかった。ここの部分だけを取り出してもチェーホフの短編小説に匹敵するんじゃないだろうか。女性の長い一人語りを書く時の岡田利規は常にすばらしいと思う。パフォーミングアーツの人としてではなく「書く人」としての岡田利規の戯曲をぼくはとても好きで、「戯曲」としてではなく、ただ「読むもの」として読んで、小説よりも面白いのではないかと思う。戯曲集『三月の5日間』に収録されている「労苦の終わり」とかは特に良くて、岡田利規の「書いたもの」のなかで一番好きかもしれない。