●自分の背中や後頭部ごしに風景を見ながら歩く、という感じで散歩することは可能だろうか。
●読んでいないけど、ジョルジュ・ペレックの『煙滅』という小説があって、それは「e」という文字を一度も使わずに書かれていて、その翻訳は「い段(いきしちに…)」を一度も使わずに訳されているそうだ。しかし、そのような、あからさまに実験的-挑発的なやり方ではなく、ひっそりと、ある一文字が使われないまま小説が書かれ、しかもその文字の回避は作者にとっても無意識に作動する抑圧としてなされ、作家にさえ意識されてもいなかったとき、その小説を読んで、特定の一文字の不在を感知することが出来るだろうか(実在しない文字が一つ追加された時は、その異物-過剰はすぐに感知されるだろうけど)。
いや、それはちがうか。そうではなく、その小説の「登場人物」が、その文字の不在に気づくことが出来るのだろうか。
あらかじめ、その基底にある一つの欠落をもつ世界があったとして、そこで生まれ、生き、死ぬことになるその世界内の住人が、その世界の内部に存在する要素だけによって、その根本的な欠落の存在を感知することは可能なのだろうか。
●ぼくにはどうも、そのような基底そのものに対する不安が常にあるらしいと最近気づいた。特に夢をみている時に。
●「エンドレス・エイト」を観た時に思ったことだが、夏休みの最後の二週間が永遠にループする世界に住んでいる人物たちが、世界の外部への参照を一切欠いた状態で、その事実を感知することは可能なのか。その世界を外側から観ている観客にとっては「反復」は前提だが、(そのようなメタレベルに立ち得ない)その内部にいる人物たちにとっては、それは前提ではなく、彼らの生の絶対的条件であると同時に、(欠落としてさえ)決して与えられることのない無なのだ。
つまり、一切の超越性を欠いた内在性のなかだけで、その内在性の「条件そのものを吟味する」ことは可能なのか。あるいは、吟味するだけでなく、それを超え出てゆくことは可能なのか、ということなのだと思う。
というか、そもそも、考えるとか、行為するとかいうことは、基本的にそこへと向かっているのではないか。