●お知らせ。今日発売の「新潮」9月号に、ぼくの書いた「誰かについて考えている誰か、のことを誰かが考えている--岡田利規論」が載っています。なお、同じ号には、青木淳悟の待望の新作「このあいだ東京でね」と、福永信による、ぼくの本の書評「脳へと滲み込む世界」も載っています。
●基本的に、誰かがぼくの本についてコメントして下さったものに対して、いちいちここで取り上げて、「○○さんが○○で取り上げて下さっています、ありがとうございます」みたいなことは書かないことにしています(明らかな事実誤認や悪意が感じられるものは、個別に抗議するかもしれませんが)。それはあまりに儀礼的に過ぎるように感じられるからです。勿論、本を真面目に読んで下さる方々全てに対して、決して儀礼的ではない感謝の気持ちはもっているのですが、だからこそ、目につく場所にコメントを書いて下さった方だけに対して、一つ一つ取り上げてここにお礼を書くのは、何か違うんじゃないかと感じるからです。
ただ、福永さんの書評には、この本を買ったら《これでしばらく味噌ご飯がつづくことになるが》と書かれていて、あっ、と思い、きっと福永さんもぼくとあまりかわらない経済的な状況で生活しているのだろうなあと思って、一瞬ニヤッと口元が緩んだ、という事実だけを、ここに記しておきたいと思います。
●お知らせ、そのニ。今日発売の「文學界」9月号に、橋本治の小説『夜』についてぼくが書いた書評、「関係(認識)と孤独(感触)」が載っています。なお、同じ号に、磯崎憲一郎さんが書いた、先日、「組立」展で行われた対談についてのエッセー「古谷利裕さんとの対談」が載っています。
●磯崎さんは、同じことを何度も話す、という印象があります。それは、一人に人に対して何度も話すのではなく、例えば、そこに数人の人がいたとして、そのなかで一人でもその話を聞いていない人がいると、他の人は全て既にその話を聞いていたとしても、その一人のためにもう一度話す、みたいな感じです。そのようにして何度も話されるうちに、その話は、決して誇張されたり、事実をねじ曲げたりはされないままに、話し方や、話す順序がこなれてきて、ほとんど磯崎さんの持ちネタのようになってきます。そうなってくると、たとえそこで話されていることが自分にまつわることであったとしても、そこで語られているのが自分ではなく、どこか別のところにいる誰でもない誰かについての話であるように感じられてきます。このエッセーもそんな感じで、確かにそこには、あの日のことが書かれているし、書かれていることはすべて事実で、そこには、嘘も過度な誇張も一切ないのですが、にもかかわらず、それは、ぼくもその場にいた現実の出来事というよりも、現実的な時間から切り離されてぽっかりと浮かんだある場面のような、磯崎さんの小説のなかの一つの場面のように感じられてきます。このあたりにも、磯崎さんの小説の秘密の一つがあるのかもしれないと思いました。
●なびす画廊で利部志穂・展、二回目。作家とちょっとだけ話す。作家にとって作品は、自分の頭のなかから出て来たものでもあり、この作品が、展覧会が終わって解体されてしまったとしても、また、次の作品をつくることに興味が移行してゆくのだろうけど、決して自分の頭のなかから出て来たというわけではないある作品に魅了された側としては、この作品がなくなってしまえば、この作品から得られた感触を自分の頭のなかだけで再現することはほぼ不可能で、つまり、この作品が解体されてこの世からなくなってしまえば、ぼくが今、ここで感じている、この感じは、二度と戻ってくることはないのだと考えると、会期が終了して、作品そのものが世界から消えてしまうことに、何とも納得の出来ない感じがするのだった。とはいえ、この作品のこの感じは、おそらくインスタレーションという形式でしか実現出来ない質をもったものであるから、それをもっと長く持続可能なようにフィックスすることは出来ないのも仕方がないのだけど。
土曜までだけど、出来ればもう一度くらい観たい気がする。