●宣伝です。唐突ですが、自主制作で電子書籍をつくりました。書評集です。タイトルは『フィクションの音域 現代小説の考察』(400円+税)。



http://bccks.jp/bcck/123684/info
文芸誌に掲載された書評から、現代の日本語で書く作家の小説について書いたものを選んでまとめました。ボーナストラックとして、二万六千字の青木淳悟論も収録。ボリュームは、200ページとちょっとで、だいたい薄めの新書一冊分くらいです。
次に挙げる十七名の作家の作品について書いています。
青木淳悟青山七恵絲山秋子磯崎憲一郎大江健三郎岡田利規奥泉光柴崎友香大道珠貴津村記久子橋本治福永信古井由吉保坂和志、山崎ナオコ―ラ、山下澄人横尾忠則(五十音順)
初出誌は、「新潮」「群像」「文藝」「文學界」「すばる」で、プラス、シンポジウムの講演原稿があります。とりあえずは「BCCKS」のショップのみでの販売ですが、そのうちに、他の電子書籍ショップでも買えるようにしていきたいと思います。
●今、住んでいるのは生まれてから二十一歳まで住んでいた土地でいわば地元なのだけど、引っ越してきて二年を越え、その間にぶらぶら散歩したりして思うのは、地元の地理を意外に知らないのだなということだ。こことこことがこんな風に繋がっていたのか、とか、こんなに近くにこんな場所があったのか、とか、そういえばここから先のことはまったく知らないなあ、とか、かなり頻繁に思ったりする。地元の散歩がこんなに新鮮というのは、どうなの、自分、と思う。
考えてみれば、普段は学校に通っていたわけだし、それなりに大きくなれば、休日なども「ここ」よりも栄えた土地の方へ遊びに行ったりするのだから、特に用事があったり友人の家があったりする辺り以外は知らなくて当然なのだし、学校の帰りに遠回りして帰るのが好きだったとはいえ、「家へ帰る」というざっくりした方向は決まっているのだから、その迂回にもおのずと限界はあるということだ。だけど、生まれてから一応大人になるくらいまでずっと居たということは、ぼくにとってこの土地はいわば世界のひな形みたいなもののはずで、そのような土地の描像が、こんなに空白や欠落が多くて、よく平気でいられたものだと、過去の自分に対してあきれざるを得ない。寄り道や回り道ばかりしていたくせに、地図的な、俯瞰的な意味での「地理」みたいなものにはまったく興味のない人間だったのだなあと、今更ながら思うのだった。
この、欠落の多さや関心の偏りの大きさ、つまり「用事のない領域」に対する無関心さは、それが過去の自分であるのに、ある不気味さのようなものさえ感じるくらいだ。実際に、そっちの方へ行くことはないにしても、だいたいの感じとしてくらいは、そっちの方がどうなっているのかを知らなくて(つまり、世界の大雑把な見取り図がなくて)、何故、不安ではないのか、と、なんととぼけた、ぼんやりした頭なのかと、思わずにいられない。
おそらく若い時のぼくは、線的な意味での「経路」に関しては人一倍興味があったと思うのだけど(学校の帰りは、本当に寄り道ばかりしていたし、余計な細部にばかり目が行っていた)、その経路が、面的な(あるいは立体的な)レベルでどのように「配置」されているのかについて、驚くほど興味がなかったのだと思う。この道と、あの道の間にあるはずの連続性についての意識がなく、その部分の「世界」はすっぽり欠落していたし、欠落したままで平気だった。
きっと、線を面へと、あるいは立体へと変換する機能が、頭のなかにまったくなかったのではないかと思う。そしてそれらのことは、かなり年齢を重ねてから、意識的に学習したのだと思う。地図を見るということが、目的地までの経路を見るだけではなくて、その土地のもっている配置を見るのということでもあるのだと意識したのは、多分、三十代も半ばを過ぎてからのことではなかったかと思う。