●『サイバーパンク・エッジランナーズ』を観てから、フィクションの「根性構文」が気になってしまう。例えば、新しい『うる星やつら』の一話目で、ラムとあたるとの対戦で、最初の九日間は全く手も足も出なかったあたるが、九日目の夜にしのぶから結婚をチラつかされて俄然やる気になって、最終日の十日目で見事にラムを破ることになる。だがここで、全く手も足も出なかった九日間と、最後の一日で違ったところは(つまり「勝因」は)、ただ、しのぶと結婚できると思って「やる気」になったということだけなのだ。やる気になったことで、何か一つ工夫を思いついて、それか功を奏して勝利した、というのなら、物語の展開として納得できる。しかし「やる気になったから勝てました」だけでは、物語として明らかに間を繋ぐアイデアが一つ足りない。この「足りない一手」を、やる気とか根性とか勢いとかで繋いで「納得」させてしまうのは、良くないことではないかと思うのだ。
こういうフィクションに「納得(あるいは感動)」してしまっている限り、偉い人たちは中抜きと賄賂で美味しい思いをして、下々の者たちがその皺寄せとして無理と根性と我慢を強いられる空気が肯定される状況が、相変わらず続いてしまうのではないかと思う(この文自体にも、論理にやや飛躍があるのだが…)。
(勿論、物語の展開は必ず滑らかに繋がっていなければならないということはない。意図的な欠落や、繋がらないものを強引に繋げてしまうことで生じる、驚きや可笑しみもある。ここで問題にしているのは、欠落を「根性」や「やる気」が埋めてしまうということだ。)
●新しい『うる星やつら』に関しては、「昭和のラブコメ」を、今、そのまま原作に忠実な感じにリメイクするのは相当無理があると思うし、実際、一回目からところどころで、かなり厳しい感じだった。あえて今、「うる星」をやるというのなら、かなり大胆な改変が必要だったのではないかと思った。
例えば、あたるの母があたるに対して「産むんじゃなかった」ということを繰り返し言う。あたるの母親が決まり文句のようにしてこの台詞を言うことは記憶にあるし、八十年代にはぼくもこの台詞の反復を抵抗なくギャグとして受け入れていた。その時に「可笑しみ」の感覚があったことも確かに憶えている。しかし同時に、今の時点では、自分の気持ちとしてもこの台詞に引っかからずにすんなりとは受け入れられないし、「可笑しみ」の感覚も生じない。ギャグとしても滑っている。
(『うる星やつら』が連載され、アニメが放送されていた八十年代前半と今とは、人権、家族、ジェンダー、セクシュアリティなどについての、常識も感覚もかなり違うし、社会の環境も違う。)