●『輪るピングドラム』の二話を観た。面白かった。こんな感じでガンガン行っちゃってほしい。ちょっとだけ、先の展開の匂いのようなものが感じられた。
●「生存戦略」というのはおそらく、生殖にかかわるさまざまなことがら(性欲、性愛、懐妊…、そして死)をめぐる戦略(闘争)の総称で、というか、そういうものを通じて人が必然的に絡め取られてしまう何か嫌な力のことなんじゃないだろうか。
ペンギン頭が登場する、謎の地下鉄からトランスフォームするクマみたいなマシーン(クマからペンギンが出てくるわけだ)は、たぶん一話の冒頭に妹の部屋にあった、海賊風の眼帯をしたクマのぬいぐるみのイメージと繋がっていると思うのだが、そのぬいぐるみはまるで妊娠しているように腹が膨らんでいた。とはいえ、海賊風のクマは男の子みたいな感じなのだが…。で、白いクマのマシーンの腹からペンギン頭にのっとられた妹が出てきて、黒いクマのマシーンの腹から双子の男の子たちが出てくるのだが、その時、白いマシーンからペニス状の突起が出てきて、黒いマシーンに突き刺さって、そのペニス的な突起が肋骨みたいに開いて、それをブリッジにしてペンギン頭の妹が双子の方に近づいてくる。女の子のマシーンのペニスが男の子のマシーンに突き刺さる、と(ペニス的というより臍の緒的なイメージなのかもしれないけど)。そして、妹が二人に近づいてきた時(近づきながら一枚ずつ服を脱いでいる)、双子の弟の方が奈落の底に落とされて、兄だけが残る。その兄に向って、ペンギン頭の妹が、「生存戦略しましょうか」と言うのだが、これはつまり「セックスしましょうか(あるいは、子供をつくりましょうか)」としか聞こえない(服もどんどん脱いで、最後には白いハイレグの水着みたいのしか着ていないし)。一話では、妹が兄の胸に手を突っ込んで何かを取り出している(明らかに性交を想起させる)シルエットによるイメージがあらわれていた(ここでも、胸に手を「突っ込む」のは女性の方だ)。一見仲の良い三人の兄弟の関係のなかに、このような秘密の二者関係が潜在しており、そこから弟は排除されている、ということになる。この潜在的な関係性が、おそらく物語が進行してゆくうちに何からの形で露呈してくる気がする。
●二話は、冒頭の場面を除いてほぼ屋外で展開されていた。屋外はほぼ普通のリアリズムで表現されており、荻窪、新宿、池袋などの地名や、見覚えのある風景も登場する。ただ、主要な登場人物以外の群集は記号的に処理される。しかし、ただ電車のなかだけが例外で、車内だけ、群衆も普通に人間として描かれている。やはり地下鉄は特別の空間であるらしい。(だが、第一話では、水族館も例外だった。)
●三人の女子高生。仮にA、B、Cとする。この三人組は、一話では、AとBだけ顔が見え、二話では一話で後ろ姿しか見えなかった女の子Cの顔が登場する。しかし今度はBが、ロングショットの記号的な顔が一瞬映るだけでほぼ顔が見えない。三のなかの二、三と二の関係。そしてそのうちのAが、あらたに主要な人物として浮上する。しかしそれは、一話の記号的な群衆のなかで、この三人だけが普通に描かれていたということによって、既に予告されていた。
●双子の少年たちは、運命など信じないと言い、運命(妹の死)を変えるために「ピングドラム」(未だ何だか分からない)を探している。妹を延命させる条件として、ピングドラムを見つけ出せというのが謎のペンギン頭の指令であり、物語内の狭義としては、このギブ&テイクが「生存戦略」ということになろう。一方、少女Aは、運命を信じ、それを受け入れると言い、未来の出来事が既に書き込まれている日記を持っている(この少女Aが、ピングドラムを「たぶん」持っている、とされる)。運命を巡るこのような争いは、「ウテナ」の主題でもあった。運命を変える(世界を革命する)ために、薔薇の花嫁をめぐる戦いがあり、しかし実はその戦いそのものが、まさに「運命の側」の戦略でしかなかった。「運命を変える(世界を革命する)ための戦い」という枠組みを受け入れている限り、人は常に運命に敗れてゆく、というのが鳳学園のシステムであり、そのシステムそのものの磁力から脱し得たのが、ウテナとアンシーというペアであった。だから「ピングドラム」での「生存戦略」とはまた、「ウテナ」における「薔薇の花嫁をめぐる戦い」にも相当するだろう。
とはいえ、「薔薇の花嫁をめぐる戦い」というシステムは、世界=鳳学園というシステムの内部でのみ有効であり、つまり、あらかじめ世界の全体性(「全体」と「そこから零れ落ちるもの」というシステム)が確保された上で作動するものであった(「世界の果て」の指令によって動いていたデュエリストたちの戦いは、ある意味、表象代表制に基づいていた)。ゆえに、ウテナとアンシーは、鳳学園=世界の全体性というシステムから脱することで、運命の支配に対して勝利することができた。
しかし「ピングドラム」では、風景はリアリズム的に表象され、つまり我々の住む場所がそうであるように、無限定で、断片的で、かつハイブリッドで、捉えどころがなく、隙間だらけで、あらかじめその全体性を先取りすることができない。そこではそもそも、「薔薇の花嫁をめぐる戦い」という罠ははじめから作動しない。
ウテナ」では、人類共通の敵(シトみたいな)がいて、それと戦う公的な機関があり、その公的な戦いがある内面的な葛藤を表象するみたいな構え(セカイ系?)にはなっていなくて、登場人物たちはあくまで、一人一人の個人的な事情で戦うのだが、しかしその個人的な事情が、「薔薇の花嫁をめぐる戦い」という公的制度に絡め取られてゆく様が描かれているのだが、「ピングドラム」では、私的な事情を公的な問題へと絡め取って行くような制度そのものがもう成り立たない。双子の行動は妹の延命のためになされ、それは「世界を革命する力(公的な力)」を獲得することで実現されるのではなく、謎の宇宙人との間の「生存戦略」というギブ&テイクによって実現される。それはあくまで「内輪の三人」にとっての問題と「謎の存在」にとっての問題の間に成立するのであって、その外(公)とはほぼ関係ない(他者-群衆はほぼ無視される)。つまり表象代表制は成立せず、それをかいくぐるネットワークこそが問題となるはず。
だから、まだ明らかにされてはいないけど、そのような世界での「生存戦略」(という、おそらく「罠」)は、また、「薔薇の花嫁」とはまったく異なった形をとることになるはずだろう(榎戸洋司は「そこ」を今一つ突破できない感じなのだが、とはいえ「スタードライバー」の終盤には期待しているけど、それを幾原邦彦はどのようにやるのだろうか…)。だとすれは、その「生存戦略」との「戦い方」も、まったく別の形をとることになると思われる。「ピングドラム」の一話を観てすげーと思ったのは、世界設定の時点で「ウテナ」とはまったく異なるものを提示していたから、ということでもある。主題的な共通性はあるものの、完全に新しい地点から出発している、と。
●「ウテナ」で、ウテナ、アンシー、アキオという三角関係は、ウテナ-アンシー、アンシー-アキオ、ウテナ-アキオという三つのペアの力のせめぎ合いとしてあったけど、「ピングドラム」では、まず、双子と妹という三人の「家族」という強い、内輪的な三の連結が最初にあって、その内部に、二+一へと分裂するような潜在的なペア関係(兄-妹、あるいは双子)が内在している感じ。この「三」がつくりだす「(危うさを内包する)内輪」と、その外にひろがる「底が抜けた世界の無限定さ」との間にどのような関係(ネットワークの展開)があり得るのか、という話になってゆく気がする。