2021-05-31

●U-NEXTで『あのこは貴族』(岨手由貴子)を観た。確かに、ここまで明示的に「階級」を描いた物語は他にあまりないかもしれない。ここで面白いのは、二つの階級がたんに対比されるのではなく、かといって交流が起るわけでもなく、「接点」が描かれているところだと思った。

あきらかに「階級」の異なる水原希子高良健吾の接点となる場が「大学」と「夜の店」だというのも面白い。この二つの場は、普段なら決して交わることのない異なる階級に属する人たちの接点となり得る場だと指摘しているかのようだ。とはいえそれは接点に過ぎず、交流が起ることは稀であろう(水原希子は一回のお茶に平気で五千円払える同級生とは付き合えないし、夜の店には客とホステスという立場の違いがある)。だからこそ、水原希子高良健吾の間に何かしら「通じるもの」があったことは極めて貴重なことだろう。しかしそれでも、二人の(プライベートな)関係は、階級差があるため、それが(社会的に)定着するための場(形式)が存在しない。つまり持続可能性が低く、不安定なものとならざるを得ない。

(とはいえ、二人の関係は不定期ながら十年くらいは続き、水原希子高良健吾を、この十年で最も親しかった友人、というようなことを言う。)

階級が描かれるとは言っても、ある階級を代表するような人物が描かれるのではなく、むしろ所属階級から浮いてしまうような人が描かれる。一方に門脇麦石橋静河の階級があり、もう一方に水原希子山下リオの階級がある。

裕福ではない地方出身の女性である水原希子は、自身がその内にいる環境から抜け出すために、必死で勉強して東京の大学に入る。彼女はこの時点で「脱出」にある程度は成功しているわけだが、親の経済的な事情から退学せざるを得なくなる(階級による引き戻し)。とはいえ水原希子は働いて東京に居続けているので、地元・地縁の重力からは逃れ得ている。山下リオは大学を卒業できるが、地元に戻って「地元では有名な企業」に就職する。だがそれは彼女にとって良い場所ではないらしく、独立して起業を考えているところで水原と再会する。

門脇麦は東京出身であるが故に「上京する」ことで家・地縁から逃れるという手法が成立しない。東京生まれだからこそ東京(山の手)に閉じ込められる。東京の「いい家」の子が家・地縁から逃れるためには、石橋静河がそうしているように海外を拠点とするなど、階級ネットワークと別のネットワークのなかに居場所を見つける手立てを考える必要がある。門脇麦は、「東京のいい家」の家族関係のなかで居心地が悪そうではあるが、そこから積極的に抜け出そうとはせず、階級ネットワークの規則に従って結婚相手を探すことに(消極的に)同意する。門脇麦には、石橋静河にとってのバイオリンのような、階級ネットワークから抜け出すための武器がないため、そこから抜け出し得ると想像することもないのだと思われる。

門脇麦水原希子という交わらない二つの階級に二度の接点が訪れる。一度目の接点により水原希子高良健吾を失い、二度目の接点は門脇麦高良健吾と別れるきっかけとなる(おそらく、「別れることも考え得る」という可能性に気づく)。逆から見れば、一度目で高良健吾水原希子を失い、二度目で高良健吾門脇麦を失う。

最初、高良健吾は、特権階級のイケメン男性で、「この世の美味しいところは全部俺様がいただく」的な人物に見えるのだが、最後までいくと、階級ネットワークのなかに最も強く縛られて身動きがとれない不自由な人だと思えてくる。映画の終盤になると彼は常に疲労し切った様子だ。養分として東京に搾取されまくっていると言う(これは確かに事実だろう)、地方出身の女性である水原希子山下リオと、まさに彼女たちを養分として吸い上げる特権階級男性の高良健吾と、どちらがより自由(能動性が高い)と言えるのかよく分からない。

水原希子にとって「大学に行く」ことは、地縁・階級ネットワークからの切断の契機となるが、高良健吾にとって「大学」は階級ネットワークの内部組織でしかない。水原希子は、地縁・階級ネットワークから離れた東京で、友人である山下リオと起業することができる。勿論、それもまたより大きなネットワークのなかで(高良健吾的な高い階級の人たちに)搾取されているだけだと言うこともできる。しかし少なくとも信用できる友人と共に生きることができる。高良健吾は、結婚のために希有な「友人」であった水原希子を失う。

門脇麦は、ただそれが階級内ルールだという理由で、義務として押しつけられるように結婚相手を探していたのだが、高良健吾と「出会う」ことでその意味が変化し、結婚が積極的な行為となる(「いい人を見つける」から「好き」に変化する)。門脇麦はおそらく、高良健吾と自分の関係のなかに、階級内ルールとは別のもの、個と個としての出会いをみていた。しかし高良健吾にとってそれは、階級内ルールの忠実な執行に過ぎなかった。門脇麦は幻影をみていたわけだが、しかしその幻影こそが、彼女に「階級ルールの外にあるもの」を意識させたのではないか。一度の幻影をみることなくルールに従って結婚していたら、自らの意思で離婚を選択するということを考えることもなかったのではないか。勿論、自分の「腕」によって自律している友人、石橋静河の存在も大きいだろう。

(高良健吾はおそらく、「幻影」を一度もみることができなかった人なのではないか。)

(追記。ただ、ラストシーンがちょっとよく分からなかった。最後に、門脇麦高良健吾が偶然再会して、石橋静河がコンサートをしている空間を挟んで、微妙な距離で見つめ合う。これが、二人の出会い直しの可能性を示唆するものなのか、それとも、二人の関係が修復不可能であることを示すためにわざわざ---距離を介して---再会させたのか、あるいは、どちらの可能性もある---未来は確定されていない---ことを示すオープンエンド的なものなのか、よく分からないし、そのどれであったとしても、この映画のラストとしてそれはふさわしいのだろうか、と、疑問に思った。いきなり一年後に石橋静河のマネージャーをやっているというところに飛ぶ前に、離婚後の門脇麦を示すシーンが一つでいいから欲しい感じがした(説明しすぎか…)。あるいは逆に、水原希子山下リオのシーンで終わってもよかったかも(これでは説明不足か…)。いや、ポンと一年後に飛ぶというのはいいとしても、ラストに門脇麦高良健吾が再会する必然性がわからないというか、二人の再会で物語を閉じることに対して、どうにもしっくりこない感じをもった。あるいは、わざわざ再会させるなら、見つめ合うだけでなく、もう一歩踏み込んだところまで描いてから終わって欲しいという物足りなさを感じるのかもしれない。)