●『シチズンフォー』(ローラ・ポイトラス)を、DVDで観た。予備知識無しで観たら、この映画をドキュメンタリーだとは思わないのではないかと思うくらいに、物語的にも面白く構成されていた。しかも、SF的なフィクションだと思うのではないか、と(冒頭でSFではありませんと言っているからなおさら)。
前にオリバー・ストーンがつくったフィクション版『スノーデン』を観てはいるのだけど、これは特に映画として面白いということはなく、スノーデンという人がどういう人で、何をしたのかという、いわば『シチズンフォー』を観るための予備知識を得るために観ておけばいいという感じの映画だった。スノーデンがわずか29歳という年齢で、アメリカの国家機密のかなり深いところまで知る立場にいることができたのは、彼が飛び抜けて優秀なプログラマーだったからだということが『スノーデン』を観ることで分かる。
オリバー・ストーンの映画では、スノーデンが彼女と知り合ったきっかけとして、二人とも『攻殻機動隊』のファンだったからだということがちらっと描かれていた。スノーデンが日本のアニメやゲームのファンであり、スノーデンの行為そのものが、いわばリアル「笑い男」と言えるものだということを考えると、彼の行為に対して『攻殻機動隊』という作品が大きな影響を与えたのは明らかなことだと思われる。
(スノーデンは、リバタリアン的なアメリカの理念を支持する保守主義者であるのに対して、彼女の方は、典型的なリベラル派で、二人は常に政治的な立場では対立していて、会話としては相手の考えを非難し合いつつも、行為としてはイチャイチャしているというデート場面があって、オリバー・ストーンの映画でこの場面だけがちょっと面白かった。「恋愛」というものは、(見た目の好みや性的な魅力を通じて)社会的階層や思想信条の違いをのり越えて人と人とを関係させることにより、社会的にも、生物学的にも、多様性を促進させるという意味で、重要なものなのだなあと思ったのだった。
(まあ、スノーデンとリンゼイ・ミルズは、普通に「エリートと美女のリア充カップル」とも言えるけど。)
スノーデンは、尊敬すべき勇敢な告発者であるが、革命家でも政治家でも思想家でもない。彼は、たまたま自分が知ってしまった重大な事実を、「この事実が人々に対して隠されているべきではない」と考え、自分自身の身を犠牲にしてでもそれを公にすべきだと考えた。そして、彼にはそれを実行できるだけの能力があった。その点で、最大限の尊敬を感じる。しかし、人々がその事実を知った上で、それについてどう考えるか、どう行動するかについてまで、自分が何かを主張すべきだとは考えていなかったし、実際、この事実を人々に知らせた上で、それでどうすべきであるか、それによってどうなるかというビジョンはなかったのだと思う。この意味でも、スノーデンは「笑い男」に似ている。
(スノーデンの告発によって、CIAやNSAの内実が実際にどの程度かわったのか、本当のところは知ることができない。少なくとも、われわれに、そういうことが「現実である」と知らせてくれはしたわけだけど。)
不正や悪を告発することと、社会の仕組みや状態を変えることとは違う。不正の告発に意味がないと言っているのではない。それは常になされなければならない重要なことだろう。しかし、前者と後者とはそのままではつながらない。「笑い男」が突き当たった壁もそこだろう。スノーデンにはおそらく(そして「笑い男」にも)、このようなことが可能である時代にわれわれはどうすべきか(そんなことが可能になってしまった世界がどうあるべきなのか)ということにかんする、新しい具体的なビジョンや思想はおそらくない(スノーデンの行動は、素朴なリバタリアン的な正義感からくるものなのだろうと思う)。ビジョンは、スノーデンや「笑い男」だけでなく、公安九課のアラマキやクサナギにもトグサにもなく、故に彼らは体制内アウトローなのだ。つまり、(現体制内において)民主主義的であり、皆がフェアに法律の下に平等であるべきで、その範囲内において不正は許されるべきでなく、そのためには荒事も厭わないが、フェアであることを実現する「現体制」そのものは維持されなければならない、と。新たな何かへの模索はない。
(スノーデンは、アメリカでは犯罪者で、帰れなくてロシアにいるので「体制内」とは言えないとしても。)
●これは半分冗談だけど(つまり、半分は本気だということでもあるが)、ぼくの今度出す新しい本を、なんととかしてスノーデンに読んでもらうことはできないだろうか。スノーデンは日本のアニメやゲームのファンで、しかも横須賀基地で一年半くらい働いていたことがあって、日本語がけっこうできるという話を聞いた。現在のスノーデンがロシアでどのくらい忙しい、どんな生活をしているのか全く分からないけど、もし手元に本が届いたら、暇なときにきまぐれにパラパラみるくらいはしてくれるのではないか、という妄想。