08/02/20

●『春の惑い』(ティエン・チュアンチュアン)をDVDで。女が城壁を歩いている。男が物置のようなところを片付けていて、戸のようなものを壊してしまう。遠く汽笛が聞こえる。汽車の、地面と車輪との間の隙間から、向こう側に一人の男が降りたのが見える。廊下をゆっくりと老人がやってきて、旦那様と呼びかけ、木戸を軋ませて開き、不在の室内で何かを拾い上げる。汽車から降りた男が道を足早に歩いている。まだ、この時点では、これらのカットの間の関係は分からず、これから何が起ころうとしているのか予測できない。あらゆる事が不確定なまま、ただ画面を眺め、音を聞くだけだ。しかし、一つ一つのカットで見えるもの、聞こえて来る音から、何か未知の世界がゆっくりとたちあがる気配が感じられる。ああ、これが映画なんだなあと思う。
老人は、物置を片付けていた男にマフラーを渡す。この男は病気であるようだ。春が訪れたこと、戦争が終わったことが告げられる。女が屋敷に戻って来る。どうやら女と男は夫婦のようで、その仲は微妙な距離があるようだ。女は窓辺で刺繍をはじめる。汽車から降りた男が屋敷の木戸を叩く。女は、誰かが木戸を叩いているから見にゆくように老人に言う。そこで、学校へ行っているもう一人の登場人物の名も告げられる。老人が戸を開けると汽車から降りた男は既に裏へとまわっている。決して説明的にはならないゆるやかさで、少しずつ関係性がむすばれてゆく。
汽車から降りた男は裏木戸を叩き、最初の男はそれを開くが、既に汽車の男は塀の崩れたところからもう敷地に入ってきている。二人は古い知り合いであるらしい。10年ぶりの再会だと言い合う。一方の男は古くさい身なりで、古めかしいヒゲをはやしている。もう一方の男は、モダンな白いスーツ姿だ。老人がやってくる。どうやら老人とも知り合いであるらしい。お坊ちゃま、お久しぶりで、とかなんとか。自分が裏から入ってくるのは、いつも通りのことだと笑い合う。旧知の者達の、懐かしい再会の雰囲気。しばらくして女もやってくるが、そこですぐに、汽車の男と女とが訳ありであることが察せられる。ゆったりとたちあがったものが、そこでぐっと動きだすのを感じる。ああ、映画だなあ、と思う。
映画では、様々なものが見え、様々な音が聞こえる。しかし、そこに見え、聞こえるものしか知る事ができない。それ以上には近づけない。だが、そこに見えるもの、聞こえる音がいくつも重なることで、その関係から何かがたちあがり、空間がひろがり、世界がひらかれる。そして、その関係が動いてゆくのを感じる。ただ、そこに見えるもの、聞こえる音たちの関係と、その動きだけから、それ以上の何かが捉えられたような気持ちになる。あるいは、見え、聞こえるというよりも近くへと、ぐっと迫ることが出来たような気持ちになる。ああ、映画だなあ、と思う。
ここにみられるのは、きわめて紋切り型のお話なのだが、それだけでなく、見えるもの、聞こえるものたちの複雑な諸関係からたちあがる、世界のあらわれがある。映画って不思議だなあ、と思う。
●ずっと部屋にいると慣れてしまって分からないのだが、外から帰って来て玄関を開けると、油絵の具のにおいがむっと迫ってくる。あ、この感じ、と、その度に記憶の回路が開く。十代の終わりから二十代はじめにかけての長い長い浪人時代、ほとんど一日中油絵の具のにおいのなかにいた。でも、すきま風の通るようなボロい木造の建物なので、においが漏れて近所から苦情がくるのではないかと、ちょっと不安にもなる。
(以前、泊まり込みのバイトをしている時、夜、仮眠室で墨汁を使ったドローイングをしていたら、引き継ぎする人に、古谷くんの後、いつもへんなにおいがするんだけど、ヤバいこととかしてないよね、と言われて、はじめて、墨汁のにおいが、いつまでもかなり強く部屋に籠るのだということを意識した。汚さないように、というのはすごく気を使っていたのだけど、墨汁のにおいがそんなに鼻につくとは思っていなかった。こっそりやっていたので、誤摩化すのに苦労した。)