●絵画はそれを観る人の前に、一挙に与えられる。つまり情報は一挙に開示される。一挙に与えられるというのは、一挙に把握される、というのとは違う。決して一挙に把握することが出来ない塊が、一挙に与えられることによって、それを観る人それぞれのなかで「観る」ための時間が動き出すのだと思う。単純に、まず何処に視線をやり、それがどう移動してゆくか、とか、どの細部とどの細部とに注目し、そこにどういう関係(構造)を見出してゆくか、とか、そこで見出された関係性が、別の細部の発見によって、どう動いてゆくのか、とか、そういう順番は観る側が決める。その時間性(あるいは、ある認識と別の認識との間の落差)が、絵画の空間をたちあげ、そして動かす。だから絵を観ることは、(意味を探る、とかいうこととはまた別の、感覚による)解読とか、解凍のような作業となる。その時間性、空間性のたちあがりや動きは、あくまでそれを観る人それぞれの、固有の身体や認識や気づきのリズムに預けられる。
映画や小説がそれと違うのは、情報が開示される順番がある、というところだ。いくつかあるカットを、どういう順番で並べ、どういうタイミングで切り替えるのか、ということに大きな意味が出て来る。つまり時間や動きがある程度つくる側によって操作されていて、それを観たり読んだりする人は、まずそれを受け入れ、それに従う。時間や動きはすでに(ある程度)つくられている。だから逆に、その流れを受け入れた個々の身体に内部で発生する感覚は、時間とは別のもの(時間を通して与えられる、時間とは別のもの)、時間から離陸した何かだという側面もあるのかもしれない。物理的に時間に縛られることによって、感覚的に時間から離脱する、というような。(時間的な縛りという意味では、小説は比較的ゆるやかで、映画ではほぼ絶対的だと言える。映画には傍線を引いたり書き込みをしたりすることが出来ない。)
ただこの違いは、既に出来上がったものとしての作品を前にしてのことだ。制作の過程において、小説が、時間のなかで一語一語順番につづられ、映画がワンカットずつ順番に撮られるのとかわらず、絵も、時間のなかで、一本一本線が引かれ、一筆ずつタッチが重ねられる。つまり「時間」のなかでつくられる。(だから版画や写真は、おなじ平面的表現でも、絵画とは大きく異なる。勿論、個々の作品の作られ方において幅があるので、一概には言えないけど。)ただ、それが展開される場所が、小説では時間であり、絵画では空間(平面のひろがり)であり、映画には、時間的な展開と(フレームという)空間的な広がりが同時にある、ということか。(しかし多くの映画においては、主となるのは時間的展開であるように思われる。映画の空間は、フレームのひろがりであるよりも時間の展開によってひらかれる、という意味で。)
●それにしても、昨日観た『春の惑い』はすごかった。観ている二時間ちかい時間、一度も瞬きも呼吸もしなかったんじゃないか(そんなことはあり得ないわけだけど)と思うくらい、息つく間もなくすべての瞬間が充実していた。酸素が濃すぎて窒息する、みたいな感じだった。冷静に考えれば、すごいバカみたいな話で、こんな脚本なんで映画にしようと思うかなあという感じなのに、そんなこととはまったく無関係のように、映画はすごいのだった。(主人公の妹の誕生日の場面の横移動など、映画ってこんなことも出来るんだ、と驚いた。中国語の音の響きがこんなにうつくしいということも、はじめて知った。)
一方に『インランド・エンパイア』みたいな映画があって、もう一方に『春の惑い』みたいのもあって、そのまったく相容れないような両極端を、平気で呑み込んでしまっている映画というジャンルは、やっぱすげえと思わざるをえない。(でもどちらも、現代-同時代的な要素や社会的なひろがりがまったくないという点では見事に一致しているのだった。それも含めてすごい。)