●夜、作品を撤収するために吉祥寺の「百年」へ。いつもそうなのだが、展示期間が終わって、作品を壁から外す時にはすごく寂しい。この感じは、何度展示をやっても慣れない。別に、作品がなくなってしまうわけではないし、何かがかわるわけでもないのだが。これから搬入・展示だと会場へ向かう時の、緊張と高揚とは違い、祭りの後のような空っぽな気持ちで電車に乗って帰ってくる(この「祭り」には、「祭りの前」と「祭りの後」があるだけで、「祭りの最中」はない、展覧会そのものは「祭り」ではないし、会期中に「祭り」のような感情もない)。とはいえ、夜遅い時間の中央線下りはかなり混んでいて、でかい作品を持って乗り込むのはけっこう大変なので、それによって気持ちは少しまぎれるのだった。
●これからは、画廊に限らず、機会があれば出来るだけいろいろな場所で展示をしたい。絵画は、それが充分に強いものであれば、どこにあっても絵画であり得る、はず。
●昼間は『母なる証明』のDVDをもう一度観ていた。三度目に観てようやく気づく伏線が多数ある。とにかく、こんなに隅々までいろんなことをぎっしりと、ムラなく均質に詰め込んだ映画をつくるのは、ぼくが知っている限りほかにはアルノー・デプレシャンくらいではないかと思う(背景にある、趣味や教養の体系はまったく異なるけど)。この映画には、一度観ただけでは気づかない仕掛けがたくさんあって、あきらかに複数回観ることを前提としてつくられているように思う。伏線というものが、物語に幅と説得力をもたせ、それが回収されることで一定のカタルシスを与えるものだとすれば、複雑すぎて気づくことも困難な伏線はもはや伏線の意味をなさなくなる。だからこれらは、伏線というよりも、あるシーンと別のシーンとを(時間の外で)複雑につなげる(つなげかえる)ためのしるしのようなものだろう。それは多分、はじめがあって終わりがあり、順番に継起し、決まった上映時間があるという、映画のあり方そのものへの挑戦であり、そして、この映画の主題の一つである記憶の有り様にもかかわる。
あと、この映画の物語上の重要な矛盾に気づいてしまった。しかし、これだけ隅々まできっちりつくられた映画にこれだけ大きな矛盾があるということは、それは意図的、あるいは必然的に作品のなかに招き入れられた矛盾なのだと解釈すべきだろう。作品の構造の一部として埋め込まれた断層なのだと思う。