ジェーン・オースティン『ノーサンガー・アベイ』

ジェーン・オースティンの『ノーサンガー・アベイ』(オースティンの初期作品でキネマ旬報社から出ている)を、ちびちびと読みはじめる。ジェーン・オースティンの小説は、まとめて(一気に)読もうとすると退屈に思えてしまうのだが、ちびちび読むと凄く面白い。相当に口が悪い、というか、意地の悪い、容赦ない(話者の)視線に晒されて登場人物たちが語られるのだが、それが少しも嫌みに感じられない快活さに貫かれている。基本的に「親しみ」という感情が底にあって、その上での「容赦のない毒舌(突っ込み)」が繰り出され、その親しさ毒との絶妙な兼ね合いのなかから笑いが導かれるようなお喋りというのを、ぼくはとても「女性的」だと感じ、それに強く魅了されるのだが、オースティンの小説はまさにそのようなもので出来ていると思う。例えば主人公の少女キャサリンのお目付役であるアレン夫人に関する記述を引用する。
《夫人は頭が空っぽなうえに、ものを考えることができない人なので、めったに多言を弄さないかわりに、まったく黙っていることもできないのだった。そこで座って針仕事をしている間も、針を失したり糸を切ったりするたびに、あるいは通りで馬車の音が聞こえたり、着物にシミを見つけるたびに、返事をする人があろうがなかろうが、夫人はそれを声に出して言わずにはいられなかったのである。》
《キャサリンは、その時もアレン夫人に無言で訴えかけたが、まったく無視されてしまった。というのも、アレン夫人には目配せ一つで自分の言いたことを言い表す習慣はなかったので、誰かにそんな意図があろうなどとは夢にも思わなかったのである。》
ここでアレン夫人はまったく「酷い言われよう」なのだが、にも関わらず、話者の口ぶりからはアレン夫人への悪意や嫌悪や馬鹿にした感じは一切みられず、せいぜいが、うんざり、とか、やれやれ、とかいう感じを含んだ軽いからかいの調子で、基本的には「親しみ」の感情が基底にあり(しかしその「親しみ」は、過剰に近づきすぎない絶妙な距離感とエクリチュールの運動神経によって保たれているもので)、だからこそ素直に「笑える」のだと思う。
(ここでぼくは小津を思い出す。小津の映画の中年男たちは、料理屋の女将を「下品な冗談」のネタにして笑う(例えば『秋日和』)のだが、この笑いはただ「男たち」の仲間意識を確認するためだけに機能する閉じたものなのだが(だいたい下ネタというのはそういうものだ)、同じ女将をネタに笑うにしても、若い女たちの「笑い」(例えば『麦秋』)は基本的に女将への「親しさ」によって生じるような、もっと豊かなものである。)