●『機動戦艦ナデシコ』劇場版をDVDで。これは傑作ではないだろうか。ただし、この傑作を観るための条件として、本編であるテレビ版で描かれた出来事の関連と多数のキャラクターをしっかりと把握している必要がある。九十分余りのこの作品のなかに、オールスター顔見せ興行であるかのように本編に登場した多数のキャラクターが矢継ぎ早に登場する。そのそれぞれを、このキャラは誰で、本編のどのエピソードにおいてどのような役割を担っていたかが即座に想起されないと、その場面で何が起こっているのかがよく分からないということになってしまう。本編に登場したキャラクターたちが皆、本編とは微妙に位置を変えて登場していて、その位置のズレが生む落差が作品を動かす力になっている。さらに、新しいキャラクター(これがまた、混乱を意図するかのように本編キャラクターとどことなく似ている)も登場している。このような混乱と薄皮一枚隔てた圧縮こそがこの作品の魅力だ。
そもそも本編の「ナデシコ」自体がとても複雑な話だった。それは、一本の明確な物語の流れがあるというより、その場その場で起こるそれぞれのエピソードのパッチワークの積み重ねのなかから、結果としてエピソード間の関連性が少しずつみえてくるというものだった。例えば「1234567」というエピソードが連なっているとする。そこで「136」の関連によって見いだされる一本の線があり、「2357」の関連による別の線がある、という風で、複数の線が同時に進行する。二本の線が重複して交錯する「3」のようなエピソードもあれば、さし当たりどのエピソードとも関連の見いだせない「4」のようなエピソードもある、という感じで。
●本編「ナデシコ」は、これで完結しているのかよく分からない終わり方をする。いやそもそも、観ている途中でも、話がどんどん予想外の方に進んでいって、どこに向かっているのかがよく分からない。しかし、このような複数の線(複数の方向)の展開によってすすむ作品において「物語」の完結はあり得ないのではないか。それは、どこまでも増殖可能であるとともに、どのスケールのフレームで切り取ってもその都度成立しているともいえる。確かに、「いくつもの解明されない謎」が残ったままだし、物語としてのクライマックスもあるようでない。カタルシスがないし、何かが解決していたり終結していたりする感じもないままで終わる。
だがそもそもこの作品は、謎による誘惑や物語の推進力によって人を引きつけるような作品ではなかった(その意味で「エヴァ」とはまったく違う)。クライマックスといえばすべての場面がクライマックスであり、すべての部分が作品の中心であって、ある中心部から別の中心部へと中心が移行する(彷徨する)ように物語はすすみ、それぞれが中心である多数の部分の移行のなかで事後的に結ばれる複線的に重ね合わせられた線が物語の展開となる(展開の方向性は、部分間の関連が見えた時に---パスがつながった時に---事後的に理解されるしかない)。そして、すべての部分が等しく中心である以上、メタレベルは成立しない。オブジェクトレベルとメタレベルがあるのではなく、複数のオブジェクトレヘルの流れ(層)がある。だから「ゲキガンガー」もまた複数の中心の一つであってメタではない。
(「残された謎」とは、「4」のような、現時点でさし当たり他のエピソードとの関連性のみられなかったエピソードが、最後までそのままだったことで結果として「謎」となったのであって、つまり他の部分と同等に提示されたが結果として「そのまま放置された」ということで、ことさら「謎」として誘惑的に提示されてはいない。)
●地球と木星が戦争をしているという前提があり、ナデシコは地球側の戦艦である。しかしそれは軍に所属するものではなく、ネルガル重工という巨大企業が独自につくったもので、乗組員も軍人ではなく一般のスペシャリストたちだ。だが、ナデシコは別に独立愚連隊のようなものではなく、ネルガル重工は木星との戦争のもっとも深い闇につながっているし、そもそも軍とネルガルも上層部ではつながっている。そのような構図がとりあえずはあるのだが、そのなかで、一般人側とネルガル側(軍側)、敵側と味方側、あるいは恋敵やその他様々なレベルでのライバル関係など、立場上の対立が多々ありつつも、そのような対立関係とみえたものが次第にぐずぐずになってゆき、対立でも融和でもない、それぞれに異なるグレーな関係へとどんどん複雑になって錯綜してゆく。敵も味方もよく分からない、位置関係は常に動いている、それぞれの「その都度の関係」がエピソードごとに編成され直すことで複線化する(そのなかで、主人公ユリカによるアキトへの感情だけはブレることのない軸としてありつづけはするのだが)。
●劇場版は、本編をその下地とすることで、上記のような本編のあり様をよりいっそう過激に、高密度に押し進めている。劇場版でも、一つ一つの部分はそれ自体として中心でありつつも、別の部分との関係においては背景ともなり、一つの部分が意味=位置を移動させながら複数の立体像(関係の網)の異なる部位となる。これは本編と同じだが、同時に、劇場版の部分は、下地である本編の部分との関連ももつことで、また別の厚みをもつのだ。いわば、水平的な関係として劇場版の他の部分との関連や共鳴があり、同時に、垂直的な関係として本編の部分との関連や共鳴がある。多くの人物が、ほんのわずかに顔を出すだけだが、既にそこには(本編の記憶による)十分な厚みが存在している。劇場版は、本編の記憶を参照しつつそこにズレをもたせてゆく。これによって部分と部分との関係はより複雑で豊かな響きを生む。
●物語として考えるなら、劇場版の物語は出来のよいものとはいえない。あまりにぐだぐだであり、つまり、あまりに複雑である。劇場版は、本編での戦争が一応終結し、和解が成立した後のクーデターが主な出来事だととりあえずいえる。だがこの出来事は、あまりに複雑な因果関係のなかで起こり、あまりに複雑な因果関係のなかで収束する。クーデター勃発には様々な力の絡み合いがあり、その収束もまた多数の力の絡み合いのなかで起こる。誰かが(あるいはどの集団が)何かをしたからクーデターが起こり、誰の(どの集団の)活躍によってそれが収束されたと簡単に言えない(クーデターの首謀者はいるけど、このクーデターがそんなに単純ではないことは本編との関係をみれば明らかだろう)。特にクーデターの収束については、誰がどのようにしたから収束できたとは言えない。それにあまりにご都合主義的でもある(混沌とご都合主義の同居)。いやそもそも、これをクーデターの物語と言えるのか。それにしてはクーデターとは直接は関係のない系列が(本編からの記憶も含め)あまりに多く流れ込み過ぎてはいないか。つまり明確な主題とその展開の説得力をもつ因果関係の図解としての「物語」にはまったくなっていない。「ナデシコ」のリアリティ(おもしろさ)は物語的な説得力とは別の原理でできている。
●あらゆる場面がクライマックスと同値であることによってアンチクライマックスである劇場版「ナデシコ」は、物語上のクライマックスである場面も相対化される。アキトと敵のエステバリス(ロボット)が一騎打ちするという、一応はクライマックスというべきだろう(シリアスな)場面でも、その周辺で戦う者たちの(コミカルな)様子が常に挿入されることで、クライマックスとしての感情的な盛り上がりにまったく欠けるものとなる(とはいえ、パロディとして「メタ」の位置にたつわけでは決してない)。アキトと敵との憎しみの込められたタイマン勝負がクライマックスであるのならば、そのタイマンを成立させるために周辺で戦っている他のキャラたちのおちゃらけもまた別のクライマックスなのだ。常に多数の力や動きが一つの部分、場面、フレームに介入してくるから、どの部分、場面、フレームも常にがちゃがちゃしていて落ち着きがない。例えば、アキトは劇場版では復讐の魔と化しているのだが、彼の強い憎悪は作品中のごく少ない部分を占めるに過ぎず、全体を覆うことはない。それは感情を軽視しているのではなく、どのような感情であってもそれ以外の別の感傷との関係と混合のなかにあり、作品世界を一色に塗り込めることは決してないということだ。それを相殺とみるのは「一つのフレーム」の支配に屈している。相殺ではなく、そこに共振と増幅をみてとる目が必要なのではないか。
●高度に複雑な秩序は、弛緩した目には混乱とかわらないもののように映る。「ナデシコ」は、感情そのものというより感情の計算能力、感覚そのものというより感覚の計算能力に、訴える作品なのだと思う。