●地元のシネコンでようやく今日から『聲の形』(山田尚子)がはじまったので観に行った。
聲の形』は原作を読んでいるのだけど、このマンガのすごさは一巻に集約されていると思っていて、一巻という核があるからこそ、その後の展開に説得力が生まれる。素朴で朗らかな、典型的な「男の子」が、どのようにして聴覚に障がいのある女の子をいじめるようになるのか、わずかな無知や行き違いからどうしてそんな酷いことにまで発展するのか、そして、それがどのように逆転して自分がいじめられるようになるのか、それによってどんな思いを味わうのか、その経緯と経緯を生んだ関係性とが、きわめて詳細に、説得力をもって、読んでいて胃がキリキリするようなリアルさで描かれている。よくこれが描けたものだと感心するのだが、子供の家庭環境や、教室の子供たちの微妙な人間関係や空気の変化、担任教師の無能さまで、描かれる出来事は精密機械のように綿密に関連し合っていて、どの部分を端折ることもできない。
ある、閉じられて安定した関係=場に、異物が入り込むことで、最悪の化学反応が起こって、暴力が生まれ、関係が崩壊するという出来事が、その「場の作用」全体として捉えられている。でも、この部分を映画できっちりやるとすると、まるまる映画一本分くらいの時間は必要だろうと思う。かといって、この部分をダイジェスト風に省略してしまうと、その後の展開のすべての根拠が希薄になり、嘘臭くなってしまう。この問題をどう処理するのだろうかということを、京アニが『聲の形』を映画化するという話を聞いた時からずっと気になっていた。そしてなんとなく、核になる一巻の部分が中心の、後半を駆け足にした映画にするのではないかと思っていた。
で、観てみたら、核の部分がかなり省略されていた。でも、これでは、主人公二人の、最初の、最悪の出会いが、どのようなものだったかの具体性がすごくぼんやりしてしまうので、その後の展開が白々しいものにしかみえなくなってしまう。ぼやっとした起源の後に、そこから展開する具体的なエピソードが語られても、起源と展開との間のつながりの必然性がよく分からない。「障がい者をいじめていた最低の奴」みたいな、そういう一般例の話じゃないんだよ、障がい者をネタにした泣ける話でもないんだよ、「なぜこんな酷いことになってしまったのか」を事後的に(いじめた側も、いじめられた側も、相互に)思考しつつ、その行為をどう購えるのか、関係をやり直すことは可能なのかを試みる話なんだよ、ということが、起源がぼやけることでよく分からなくなる。元々あったものがよく分からないのに、そのやり直しと言われてもなあ、と。
(原作は---特に後半、感情を煽り過ぎるところがあるとはいえ---基本的にきわめてロジカルに組み立てられているのだけど、その論理性は、最初に置かれた緊密な起源があってこそ発動されるもので、そこがぼんやりすると論理が空転してしまう。)
主人公の石田は、世界や他人との交流を遮断し、バイトをして高価な補聴器代を親に返した後(彼はヒロイン西宮の補聴器をいくつも壊して、それを親が弁償した)、自殺してこの世界から消えてしまおうとしているほど思いつめているのだけど、この映画で描かれている事件だけでは、なぜ彼がそこまで思い詰めているのかという必然性が分からない。石田の暗さ、自らの罪から受けた傷の深さが、あまり伝わってこない。でも、展開部はそこからはじまる話なんだよなあ、と。ああ、これは上手くいっていないなあと、前半を観ている時は思っていた。
(石田の家の家庭環境や経済的な状況の具体性も、かなりぼやけていた。ここでは、山田尚子的な表現が---表現自体はすばらしいのだけど---裏目にでて、シビアにリアルな感じがマイルドになってしまっているなあ、と。)
しかし、後半はかなりがんばって持ち直しているように思えたので、なんとか、悪い作品というわけではない、というくらいは言えるかなあと、観ている間に少しずつ感じ方がかわってはきた。
作家の上品さが裏目に出ているところはあるとしても、全体として、決して嫌な感じのする作品にはならないのは、山田尚子という作家の美徳だろうとは思う。とはいえ、そもそも『聲の形』の物語を二時間で語るのは無理な話で、核の抜けたダイジェスト版みたいになってしまっていることは否定できないと思った。
(作品をつくるのは難しいなあと思い、ふと、山田尚子花田十輝のコンビでつくられていたらどうだったろうか、と思ってしまった。)
(追記。ぼくは、原作のクライマックスには批判的で、マンガを読んでいた時は引いてしまったのだけど、映画では、エピソードは踏襲しつつも、他のエピソードとの関係や配置や重みづけをかえたり、ヒロインのキャラの感じを微妙にかえることで上品な表現になっているので、これなら納得できるかなあとも思った。後半の展開については、原作よりも映画の方がすぐれているとさえ思う。)