●『聲の形』の原作(大今良時)の一巻を読み返してみた。改めてすばらしいと思った。昨日も書いたけど、この作品の終盤の展開については批判的なところもあるのだけど、この一巻に関していえば、まったく文句なくすごいと思う。この作品の二巻から七巻までの展開は、すべてこの一巻に支えられている。逆に言えば、この一巻の部分をきちんとやらないのならば、この作品を映画化する意味はないと思う。映画版のスタッフが、なぜ、ここをいいかげんにして(「いいかげん」というのはちょと強すぎる表現だが)この映画が成り立つと考えたのかが理解できないと改めて強く思った。ちがうことをやりたいのなら、他の原作を探すとか、オリジナルをつくればいい。たとえていえば、「問題」がきっちり提示されていないで、「答え」だけが示されていたとしても、どうしてこの問題からこの答えがでてくるのかがわからない。あるいは、このような「答え」が導かなければならない必然性がわからない。原作によって示された「問題」に対して、原作とは別の答えを探すというのならば、なおさら「問題」がきっちりと示される必要があるはずだと思う。
(1)主人公の石田がどのような人物であるのかが映画ではよくわからない。小学生の石田は、単純で無自覚で典型的なホモソーシャル的男の子集団のボスで、屈託なく、良くも悪くも、子供らしく、男の子らしい子供だ。多少荒っぽく、男の子同士の権力闘争はあるとしても、男の子集団の外にいる西宮に対して陰湿ないじめをするような人物では元々ない。女の子集団のなかで西宮をハブろうとする植野たちの動きをみて、もっとうまくやらないとうざかられてしまうと西宮に助言さえする。西野という異物の排除は、まず植野や川井からはじまっている。
石田の西宮に対する接触は、未知の対象に対する好奇心に端を発している。しかし石田は、あまりに狭い世界しか知らない猿山のボスであり、あまりに無知であるため、相手に対する想像力が貧しく、接触の方法がわからない。石田は、自分にとって未知の対象、あるいは未知の状況への対処法を知らないために、ことごとく間違った判断、間違った行動をしてしまう。これは、男の子が「好きな女の子」に対して、どう接触してよいかわからない、あるいは、自分の「好きな女の子への気持ち」をどう処理していいかわからないため、相手を暴力的に扱ってしまうというありがちな状況が、西宮が障がいをもっていることで増幅されてしまった感じだといえる。
(ここには、やんちゃだけど、屈託なく朗らかな男の子、というイメージのなかに隠されているマチズモが強く意識されている。)
未知の対象は、実は西宮だけではない。小学六年生という、子供から思春期へとの移行期にあることで、男の子たちの関係性にも変化が生じ始め、そして、女の子への興味も生まれ始めていて(自分の欲望の変化)、「男の子らしい男の子」のままではいられないという状況全体の変化があり、そのような状況の変化全体へのとまどいや苛立ちが、西宮という分かりやすい対象に向かってしまうという側面がある。原作は、これらの事情を非常に的確に表現しているが、映画ではまったく十分ではない。
そして、このような、子供の世界でもっとも「成功した」やんちゃ者といえる、友人とのコミュニケーションも良好だし、女の子からももてる存在である石田が、とつぜん、梯子を外されるように仲間たちから裏切られ、クラス全体で共有されていた西宮排除の空気の責任を一人で負わされ、世界そのものが反転して、奈落に落ちてしまうという出来事がある。この反転の瞬間を成立させるために、原作では子供たちの関係について多くの事柄が積み上げられているが、映画では十分ではない。石田は、奈落に落ちてからもしばらくは、その意味を受け入れることを拒否して---子供にとって、それはそう簡単に受け入れられるものではないだろう---それを西宮のせいにしつづける。この過程は映画ではほぼ抜け落ちている。石田は、卒業までずっと酷いいじめにあいつづけ、中学では「障がい者をいじめて転校させた最低な奴」として孤立する。
だから、高校生の石田が「自分が嫌い」であることには二重の意味がある。一つは、西宮に対して酷いことをしてしまったという罪の意識であり、もう一つは、世界の中心(きわめて狭い猿山的世界ではあるが)にいた自分がある日とつぜん世界から拒絶されてしまったこと(世界が自分のことを嫌いになった)へのトラウマがある。孤立しつづけた中学と高校時代を通じて、石田は小学六年の自分のクラスでいったい何が起こっていたのか、自分がなぜ、西宮に対してあんなに酷いことをしてしまったのかを考えつづけていたはずだ。
それらのすべてがふまえられなければ、なぜ石田が、死ぬ前に西宮に一度だけ会いにいこうと考えたのか、その場でなぜ、つい「友達になれないか」などとと言ってしまった(死ぬつもりなのに)のかが腑に落ちないし、この場面の重要性がわからない。映画では、この場面がきれいごとになってしまっていた感じだった。ふまえられるべきものが十分に提示されていないのだから、この場面自体の演出の冴えではどうにもならないと思う。
(原作の二巻で石田は、「お前のこえが聞こえないせいでいろいろ苦労したんだよ」と言う。ここで「聞こえない」のは石田の方だ。ここで石田は、自分の想像力や認識の足りなさを言っているのと同時に、西宮に対しても、もっと怒ったり、拒絶したりして、反応して欲しかった、自分の認識の不足を分かるように反撃して欲しかったという意味も含まれているはず。そうしてくれれば対話が可能だったかもしれない、と。勿論、それが出来ない「空気」がつくられていたわけなのだが。)
(2)原作では、西宮がクラスで徐々にうざがられ、排除される過程がきちんと示されている。たとえば、クラスで「手話をおぼえましょう」という提案がなされるには、そこに至る小さな不都合がいくつか積み重なるという過程があって、その後である。小さな不都合の解消のはずだったその提案が、かえって溝を深くしてしまうという展開は、それらの過程によって説得力をもつ。それは、クラス全体VS西宮という単純な対立ではなく、西宮以外のクラスの子供たちの関係性にも影響していく。この感じが「空気」をつくってゆく。石田の行為が、石田自身の思惑からどんどん外れて、いちいち悪い方へ悪い方へと転んでゆく悪循環も、そのような過程によって浮かび上がる(石田はいわば、クラスのヒーローに近い存在であり、それを自覚する彼の行動が、クラスメイトというオーディエンスを常に意識してなされることが、この悪循環にいっそう拍車をかけていることも表現される)。「空気」は、具体的な関係性や、具体的な過程を通じてつくられてゆく。映画ではこれらの過程をあまりに圧縮しすぎているので、「障がい者だからいじめられた」みたいな紋切り型にみえてしまう危険がある。原作では、そうならないような細心の注意が払われていると思う。
(もうちょっと、つづく)