●昨日まで三日かけてしつこく『聲の形』について書いてきたことは、以下のようにまとめられる。
(1)石田は、自分は生きていることが許されない存在だと思い、本気で死ぬつもりだったが、死ぬ前に二つの「落とし前」をつけなければならないと思っていた。一つは、母親に170万返すこと。もう一つは、西宮に直接会って、謝罪し、筆談ノートを返すこと。前者が石田を高校生になるまで生き延びさせた。
(2)しかし、ふたつめの落とし前を通じて考えが変わる。死ぬのではなく、生きて、西宮との関係(対話)をやり直すことこそが自分がすべきことで、もしかするとそれが可能なのではないか、と。
(3)以上の(1)と(2)が、『聲の形』という物語の出発点である。しかし、この物語が展開に向けて出発するためには、その前提として「小学校時代にあったこと」が具体的で詳細に示されていなければならない。
(4)しかし、アニメ版『聲の形』では、(3)が充分に示されていないので、物語の出発点がぼやけてしまい、その後の展開もつかみどころがない感じになってしまった。
(5)「小学校時代にあったこと」は、この作品に与えられた「現実的なもの」の部分であり、それ以降の展開部は、その現実を受け入れるための虚構的仕事(喪の仕事のような意味での虚構の「仕事」)の部分だと考えられる。だからこの部分では、現実的な確からしさよりも、虚構的必然性としてのリアリティが重要になる。
(6)あと、付け加えると、ぼくはこの作品が特に「倫理的」に問題があるとは思わない。作品を貫く論理の精巧さがぼやけてしまったな、と思うだけ。
(石田と西宮はどちらも、「自分など存在しない方がいい」と思っている点でとてもよく似ているので、二人が惹かれあうのは、そんなに不自然なことではないと思う。しかし、そう思うようになってしまった過程が異なる。石田は、西宮への罪の意識と、世界から拒絶されていることによって、西宮は、自分の存在が、そこにある関係性をことごとく壊してしまうことによって。だが、石田も西宮も、どちらも自殺し損なう。石田の自殺は西宮によって、西宮の自殺は石田によってとめられる。そしてどちらも、生き残った後で、「自分の存在は許されるのか」という問いを賭けた関係のやり直しを進行させる。この意味では二人は対称的だ。二度目の関係のやり直しの過程において、はじめて西宮の主体性が発動する。この物語は、非対称性と対称性のせめぎ合いと、関係のやり直しへの試みでできていると言えるように思う。繰り返される「関係のやり直し」を通じて、自己否定的な二人が、相互に相手を肯定することになり、二人共に存在することが肯定される、みたいな仕組みになっている。非対称的対等になる、みたいな感じ。この構造にはある意味でマッチポンプ的なところがあり、それを気持ち悪いと感じる人もいると思うけど、倫理的に批判されるようなことではない。)
(存在が許されたのであって、罪が許されたわけではない。一回目の「関係のやり直し」が破綻する場面で石田は「真実(自他への糾弾)」を口にし、それが破綻の原因となっている。だから罪は依然としてあり、曖昧にされてはいない。二度目の「やり直し」は、それが口にされた上で---少なくとも一度は露わにされた上で---行われている。)
(原作では、石田の自己犠牲性が強く出過ぎていて引いてしまったのだけど、映画ではそこがそんなに大げさではなくなっていて、互いに互いを救い合っている感じのバランスになっていると思う。)