●『リオ・ブラボー』(ハワード・ホークス)をDVDで観直したのは、エドワード・ヤンが亡くなったからでもある。(『クーリンチェ少年殺人事件』では映画館のシーンで『リオ・ブラボー』の音声が引用されている。)これもまた、偉大な「男の子たち」の映画だ。こんなに単純な空間とゲームの規則との幾何学的設定のなかから、こんなにも豊かな運動を導きだすことが出来るのだ、ということに今更ながら感動する。この映画が、切迫した状況を描きながらも、こんなにも遊戯的な開放感に満ちているのは、この物語が基本的に保安官の「身内の空間」の内部でのみ起こっているからだろう。(クライマックスの銃撃戦を除いて、この映画は、保安官の詰め所から町外れまでの、見渡すことの出来る短い距離の直線上ですべての出来事が起こる。)この映画の登場人物のほとんどが、保安官の味方であるか、結果として味方の役割を演じる傍観者であって、敵はそのような空間にわざわざ入ってこなければならない。この映画で起こる出来事の大半は、既に信頼関係が成り立っている者たちのなかでの、ちょっとした緊張とその緩和である。(初対面であるはずの者たちでも、ちょっとしたエピソードによって、簡単に信頼は生まれる。あとは、既に出来上がっている「あらかじめ先取りされた信頼」をもとに、どのような段取りによって関係が近しいものになってゆくか、という「段取りとしての過程」があるだけだ。)だからこの映画の基底には揺るぎない安定感があり(その安定感を視覚的に支えているのは、なんといってもジョン・ウェインの存在だろう)、言い換えれば敵はあらかじめ縮減され半ば内化されたものとしてのみあり、そのような安定感の内部にいるからこそ、観客は豊かな運動の生成を驚きと新鮮さとをもって受け入れられるのだ。この時観客は、運動の豊かさそのそものに惹かれているのか、それとも、それを可能にする安定感にこそ、魅了されるのだろうか。
だが『クーリンチェ少年殺人事件』では、そのような安定した遊戯空間が成り立たない世界が描かれており、だからそこでは「男の子たち」の遊戯的な振舞いや関係性が、そのまま無防備に外(社会)へと繋がっていて、空間も関係も複雑に錯綜したものになり、敵は縮減されることなく剥き身であらわれる(というか、敵と味方は状況によって常に反転し得るので、それは別のものではないから、「あらかじめ先取りされた信頼」は成り立たない)。男の子たちは常にテリトリーにこだわるが、しかしそのテリトリーは身内の空間としての安定感を保証してはくれない。そして、男の子たちの遊戯は、そのまま現実的な悲劇へと直結する。そこで辛うじて、安定性を「彼方からの甘美な響き」として運んで来るのが、プレスリーの曲であり、『リオ・ブラボー』的な男の子たちの(遊戯的空間を通じてはじめて可能となる「信頼」をともなう)関係性だ、ということなのではないだろうか。