人体クロッキー

●久しぶりにデッサン会へ出掛けて人体クロッキーをした。(今日のクロッキーhttp://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/d070713.html。)今日のモデルは、プロポーションがうつくしいとはあまり言えない感じで、酷く失礼な言い方になるけど、ちょっとカエルをイメージさせるような体型だったのだけど、ポーズがはじまると、ポーズのとり方がとても面白くて、しかも形がきれいに決まっているので、俄然テンションが上がったのだった。前にも一人、とてもポーズの面白いモデルがいたのだけど、その人は、ダンスなどの身体的な表現を自分で何かやっている人という感じのポーズの面白さだったのだけど、今日のモデルは、あくまで絵画のモデルとしてのポーズの面白さ、うつくしさで、おそらく長く絵画のモデルをやっている人なのだろうと思われた。(基本的に、素人の愛好家の方々のやっているデッサン会なので、まわりでは、今日のモデルさんのポーズは難しいなあ、とか言っている人が多かったのだけど、いや、こういうポーズの方が描きやすいし、普通に描くだけで割と上手く見えるんだけどなあ、と思いつつ描いていたのだった。指導者ではないので、思ってるだけだけど。)
それにしても人体は面白い。とても複雑なパーツが組み合わされて、ひとつの流れとリズムをつくっていて、しかも、ポーズがかわると、基本的な骨格構造はかわらないのに、その流れやリズムが変化し、そこにはとても豊かなバリエーションがあり、しかし同時に構造的な拘束性も確実に感じられる。(絵画における、重力と地面の重要性を、その拘束性の強さを、人体を通して改めて感じもする。)そして、それをただ「見ている」のではなく、線によってそれを追い、画面上の秩序としてそれを再構成してゆくという、その変換作業の過程そのもの(つまり、描いている時に自分の身体や頭で起こっていることの感触と、線を引き、描写をすることで画面が動いてゆく感じ)がまた、とても面白いのだ。(モデルを見る目から描く手に、何がどうやって伝わり、そして、描く手から画面=平面へ、何がどうやって伝わっているのか。それを画面を見る目が判断し、次の手を探るのだが、しかしその時、画面の状況を動かすための導きは、画面の外にいるモデルを見ることによって与えられるのだ。そこでもまた、目が直接画面を動かすことは出来ないので、目から手へと変換されて伝えられたものによってしか、画面はかわらない。ここで目から手へと伝えられるものを「イメージ」と呼ぶとすれば、それはどの程度「視覚的」で、どの程度「運動感覚的」なのだろうか。目のよろこび(目によって喚起されるもの)と手のよろこび(手によって喚起されるもの)とは、どの程度同調し、どの程度バラバラに動いていて、その支配関係はどのように変化するのだろうか、等々。例えばぼくは、これらのクロッキーをとてもやわらかいクレパスのような描画材で、とても強い筆圧で描いていて、だからしばしば、線の途中でクレパスがポキッと折れるし、短くなると先が砕けてポロポロと溢れ落ちたりする。この感触がぼくの手にとっては何らかの享楽として作用しているらしく、この感触は描く気持ちを活気づけもするし、引かれる線の表情や形をつくる手の動きにも影響を与えるように感じられる。描く気持ちを活気づけるということは、モデルを見る目に「粘り」を生じさせることでもあるし、画面を見る目に厳しさを生じさせることでもある。)ぼくはものすごくバカみたいな基礎的なことを言っているのだし、基礎的なことを改めてやり直しているに過ぎないのだが、しかしこれは何度でもやり直されなければならないことだろう。それにしても、何故十代の受験生の頃に?この面白さに気付かなかったのだろうかと思う。