●『チャパーエフと空虚』(ヴィクトル・ペレーヴィン)を読んだ。キワキワな感じの小説で、しかしそのキワキワが最後までしっかり持続する。一方に、いかにもポストモダン的な、キッチュで「面白い」お話があり、もう一方に、存在に関する深遠な(そして割と素朴な)寓話のようなものがあり、それらが互いにキワキワのバランスをとりながら、どちらか一方に傾き切ってしまうことがないまま、不安定に反転しつづける。ポストモダン的なお話だと思って読んでゆくと、その底に、がっつりとした抵抗のようにある、存在の空虚についての強い感覚に突き当たり、しかしその感覚が、あまりにも腑に落ちてしまうような分り易い「寓意」に落ち込みそうになると(あるいは、読者がその寓意をつい本気で信じて、そこに安住してしまいそうになると)、キッチュなポストモダンが帰って来て、そんなこと簡単に言えるもんか、それも結局「言葉」だろ、という感じで突っ込みが入る。しかしそのキッチュなポストモダンもまた、その底に存在への空虚な感覚がなければ、そもそもリアリティを持たない。そしてこのどちらにも決着しないギリギリのバランスは、知的な制御によって成り立っているというよりも、もっと骨太な、荒い流れの大河を素手で泳いで渡ってゆくような力技によって制御されている感じだ。(この、一見素朴で乱暴のようにさえ感じられる「素手で泳いでゆく」感じにこそリアリティが宿っているのかもしれない。あからさまに胡散臭いのに、なんか大物感がある、というか。)あまりに分り易く、あまりに面白いことに対する警戒感が読んでいる時に常にあり(ロシアの村上春樹とか言われてしまうのも、ある程度は理解出来る)、これは微妙かもなあ、と思いつつも、大きな流れに流されるように引き込まれる。微妙だなあとは思いつつも、読者に2種類の分り易さのどちらにも転ぶことを許さずに宙づりを強いる、ダイナミックに力が反転する感じに、ロシアの人々の感じているであろう(ソ連崩壊以降の、あるいは、もっとスパンの長いロシアの歴史を通じての)「現実」の感触というのは、きっとこういうものなのだろう、と思う。世界の地盤はころころかわるのに、実はなにもかわらない、みたいな。(こういう小説が「売れている」というのは、そういうことなのだろう。)
●ポストモダン的なお話として最も充実しているのは、何といっても、日系のタイラ商事に面接にゆくエピソードだろう。このエピソードには、見事に「何の意味もない」のだけど、何の意味もないままに、エピソード自身をここまで充実させるというのは凄いことだと思われる。この小説のちょうど中間あたりに位置するこのエピソードは、エピソード自体がまったくの空虚のようにあり、しかもやたらと面白いのだった。(ここにも、存在に関する寓話みたいなものが出て来るのだが、ここではそれはあくまでキッチュとしてのみ扱われている。)しかし上述したように、この小説はそのような面白さだけで出来ているのではない。
●この小説全体の面白さは、チャパーエフといういかにも胡散臭い人物のキャラクターの魅力に依っているところが大きいと思われる。しかし、この小説の説得力を支えているのは、主人公のプストタによるアンナへの感情、あるいはプストタとアンナとの関係の有り様であるように思う。プストタはアンナに一目惚れするのだが、何故かアンナは彼をほとんど生理的に毛嫌いしている。(プストタには記憶の欠落部分があり、アンナの毛嫌いはこの部分に原因があるのかも知れない。しかしそれにしても、この小説では主人公の記憶に大きな欠落があるにも関わらず、それについて何の説明もないし、意味づけもないまま、放置して終わってしまうことろも凄いのだが。)この、プストタのアンナへの執着がなければ、この小説は(様々な「荒技」はありつつも)「存在の空虚」を巡るお話として、すんなりと落ち着いてしまったかも知れないのだ。しかし、チャパーエフとプストタとがいかに存在に関する高邁な(と同時に極めてインチキ臭い)議論をしていたとしても、アンナへの色欲は消えないし、ぶざまなままに存在しつづける(それどころか、それこそが最も切迫した問題ですらある)ところが、リアリティを引き留めている。プストタを毛嫌いしているアンナが、彼の詩を読んだことがきっかけで気持ちがかわり、彼女の方からプストタに積極的に迫ってゆくエピソードがある。(しかしそれは夢の話なのだ。だが、夢と言えばプストタの世界そのものが精神病者の夢なのだし、この小説全体が、どれが夢でどれが現実なのかはっきりしない、すべてが物事の様々な様態のバリエーションの一つであるようなものなので、これが「夢」であることに特に意味はない。)ここでアンナは、プストタの知性に惹かれている(ことになっている)ので、彼女は彼との肉体的な接触の最中にも、彼が知的なことを「話しつづける」ことを要求する。プストタは、アンナに触れることが出来て舞い上がりつつも、愛は幻影であり、人は愛する人の向こう側にあるものこそを愛していて(だからあなたはぼくではなく、ぼくの詩の向こう側にあなたが見たものを愛しているのであって)、愛する人に触れたとたんにそれは消えてしまうのだ、というような話を、彼女とキスしたり触ったり触られたりしながらも(それをつづけるために)、しつづけるハメになる。ここでプストタの言うことの内容は完全に正しいのだが、その正しいことを言うプストタ自身もまた、目の前にいるアンナに対する愛や色欲に捕われ、それを求め、その行為の最中であり、その行為と言葉とのチグハグな分離を認識しつつも、その(愛と肉の)興奮のただなかにいることこそが本当は重要だったりする。(しかしその興奮はすぐに、無様に中断される。)この悲喜劇とも言える状況において、この小説の二つの異質な力、ポストモダン的な軽薄な面白さと、存在への深遠で素朴な感覚(寓意)とが、互いに反転しツッコミ合い、裏切り合うのではなく、合流しているように思われた。ぼくにはこの場面が一番面白かった。(そのちょっと前の、たき火を囲んでいるエピソードが、ちょっと寓意の方に傾きすぎていて、あれっと思っていただけに、やっぱ、アンナが出て来ると持ち直すなあ、と思った。)