●七月二日の日記でぼくが書いたことは間違っていたかもしれない。そこでぼくは、中沢新一の「映画としての宗教」の一回目(「群像」2007.1月号)で示されていた、洞窟絵画にみられるイメージの三つの分類を参照しつつ、それを精神分析的な発達の過程と重ねあわせてみたのだった。
第一郡。波動や振動を直接的にあらわしたような抽象的イメージで、具体的、具象的なイメージを持たず、意味を生産しない。(無から無へ)これは、赤ん坊が行う、原初的、非随意的(宇宙的)運動に対応する。第2郡。原子的振動のような抽象的な運動としてあったものが、その運動の先で偶発的に具体的認知(記憶)による形象と結びつくことで、具象的なイメージが生まれる。イメージ=記号の発生。(無から有へ)これは、赤ん坊の非人称的な欲動が「欲動の対象」を発見し、それと連結することで自分自身(欲動の主体)を発見する、という段階。無目的になされる口をぱくぱくさせる運動が、たまたま母親の乳房と連結し、それによって非人称的な口唇欲動が「欲動の対象」を発見し、そこにはじめて自分自身(欲動の主体)が生じる、という段階(ここでは欲動の対象と欲動の主体とは一体である)。第三郡。一旦獲得された具象的なイメージは、「記号」として定着し、もともとあった波動や振動(の直接的反映)から切り離される。もともとの動きから切れることで、それとは無関係に、記号と記号を結びつけて、新たな「意味」を人為的に生産することが出来るようになる。自律した記号の次元が生まれる。(有から有へ)これは、不安定な主体だったものが、継続的、持続的に維持されるようになる段階。偶発的にあらわれる欲動の対象を記号として固定して、継続的、持続的なものとすることで、それと結びつく欲動の主体をも、継続的、持続的なものに移行する。(七月二日の日記でぼくは、これを「糸巻き遊び」に対応すると書いたが、正確には鏡像段階に対応する、と言うべきだろう。)
ここまではまあいいとして、この後ぼくは、ドゥルーズの『シネマ2』で示される「大地」や「海」、つまり「地獄の生成変化」が成り立つ場は、イメージの第一郡においてである、というようなことを書いているのだが、それはおそらく間違いだろう。(第一郡においては、イメージは強度や振動としてのみあり、イメージからイメージへの連鎖、言い換えればシニフィアンからシニフィアンへの連鎖が成り立たないのだから。)イメージからイメージへと無限に移り行くような「地獄の生成変化」は、第三郡が獲得されることではじめて生じるというのが正しいのではないだろうか。つまり、ベルクソン-ドゥルーズの言う「純粋過去」とは、イメージが「ランガージュのように構造化」されている場なのではないだろうか。(そうでなければイメージはそれのみでそれぞれ断絶したまま共存しているはずで、イメージからイメージへと響き渡り移り行く生成変化は起こらない。)実際、少なくとも『シネマ2』の記述を追っているかぎりでは、純粋過去とはそのまま「無意識」であるかのように読める。(『シネマ2』は、純粋過去=無意識から、どのようにして、どのような、より良い「夢」を生み、つくりだせるのか、ということが書かれ、分類されている、一種の「夢判断」とも読める。)だが、ベルクソン-ドゥルーズに倣って、純粋過去が無意識で、イマージュ=物質だと考えると、ここで失われるものは、それらのイメージを生成させる基底としての身体、つまり、享楽する身体諸部分(現実的なものとしての身体)ということになるのではないだろうか。(ベルクソンにおいてはそれは、エラン・ヴィタールとして表現されるのかもしれないが。)もし、イマージュ=物質という考えを貫くのならば、無意識=純粋過去となるのは必然的だろう。そのように考える時、実体のない光りの戯れである「映画」を通じてそれを考察するのは、とても都合がよいことになる。しかし、そのような操作によって一旦記述から外された物質=基底的な身体を、結局、後から別の形で再び導入せざるを得なくなる。映画を観ている観客の身体(あるいは「脳」)が、どうしたって問題とならざるをえなくなる。