『カップルズ』(エドワード・ヤン)

●『カップルズ』(エドワード・ヤン)をビデオで。この映画も何度も観た。この映画についてはいろいろと思うところがある。悪い作品ではないが(好きなシーンもたくさんあるのだが)、エドワード・ヤンの作品としては必ずしも成功していない。軽いコメディータッチの風俗劇みたいなのをやろうとしていて、そういう作風が作家の資質と合っていないことを露呈してしまっている。構成が律儀に出来過ぎていて、作家による操作性を強く感じさせ過ぎる。しかし、それらの事はまあ置いておいて、何度観てもどうしても納得出来ない点がひとつある。最後の方で、レッドフィッシュと呼ばれている登場人物が、おっさんを銃で撃って殺してしまうシーンだ。
レッドフィッシュとおっさんが、マンションの部屋で会って話すシーンは重要なシーンで、確かに必要不可欠だろう。レッドフィッシュがおっさんに向かって銃を突きつけ、「死を意識しろ」みたいに詰め寄るのも理解出来る。急所を外して二、三発撃ってしまうのも、まあ、アリだとは思う。その後、殺しはしないと言って救急車を要請しようとするのだが、その時、父親から多額のお金を騙しとった人物だと思い込んで復讐しようとしていた女が、実は人違いで別人だったとおっさんの言葉から知ってキレてしまって、残りの弾を全ておっさんに撃ち込んで殺してしまい、自分のこめかみにも銃を向けて引き金を引くのだが弾は残っていなくて、そのまま崩れるようにしゃがみ込む。この急激なキレ方は、というか、このシーンで過剰に派手に響く銃を撃つ音と、赤と緑の激しく反転する光りは、この映画を安っぽくしているのじゃないかと思ってしまう。何度観ても、これはあきらかにやり過ぎじゃないかと感じる。
レッドフィッシュという人物は、チンピラたちを束ねる親分のような存在で、父親から習い憶えた「人をあやつる」術を使って器用に世渡りをしていて、自分のことを一角の人物だと思い込んでいるような奴だ。しかしこの映画では、この下らなくて卑小なチンピラの親分を、ギリギリのところで、どこか憎めない、魅力的なところのある人物として描いている。まったく利己的に行動しながらも、同時に、そんな自身の行動の下らなさを感じるだけの大きな視野を持っているように感じられ、そして、その知性によって、どこか揺らぎを常に持っているような人物だ。(自分の利益の都合のためだけにフランスから来た女の子に親切にしていたのだが、その女の子に逃げられたことを知り、「てっきり自分のことを信頼していたと思っていたのに、裏切られたような気持ちだ」と気持ちの揺れをみせたりする。)例えば、レッドフィッシュの後釜として親分の地位に就こうとするリドルブッダには、このような知性や魅力は全く与えられていない。つまりこのレッドフィッシュという人物は、父親の「死」を受け止め得るだけの幅を持った人物として造形されている。この人物の造形は、普通に好感が持てる「いい奴」であるだけの主人公よりもずっと複雑な面が与えられていて、この映画の幅の厚みを支えているとさえ思われる。(レッドフィッシュは、「決して変わることのない世界」である『クーリンチェ少年殺人事件』で、唯一「変わる」人物であるズルを思わせるところがある。)
おっさんとの会見のシーンは、父親の死後の、レッドフィッシュの唯一の場面だ。ここで彼は、自分や父親がやってきたことは、今、目の前で詰まらないことを喋っている下らないおっさんと全く同じであったことを悟り、その事に嫌気がさしている。だからこそ、自分の死を具体的に意識したとしても、なお、お前はそんな下らないことを考えるのかと言って銃を突きつける。(だからこの銃はおっさんに向けられたものではなく、自身に向けられたものであるのだ。)急所を外して撃たれたおっさんはリアルに死を意識し、殺さないでくれ、息子に会わせてくれ、と哀願する。ここでもまた、この目の前の卑小なおっさんの態度が父親と同じであることに彼はいら立つだろう。だが、だからこそここで、彼はさらに、自分の今までの行為の卑小さとともに、父親の心中死(の必然性)をも改めて重く感じるのだ。このシーンがあるからこそ、彼の父親の死に、たんなる物語上の(物語を納めるための)パターンであることを超えた必然性が生じるのだし、ここで改めて(というか「初めて」)、レッドフィッシュは父の死をリアルのものとして受け止めているのだ。(つまり観客もまた、ここでレットレフィッシュと共に、彼の父の重さを感じる。)ここで、殺しはしないと言って救急車を呼ぼうとする彼の行為は、たんに彼が、簡単に人を殺してしまうほどに悪人ではないことを示しているのではなく、父親の死を改めて受け止め、その重さを感じたからこその行為だと言ってよいと思われる。
しかしその後、このおっさんの口から、レッドフィッシュが復讐しようとしていた女は、父親のかつての愛人とは別の人物であることを知らされ、彼は自身の愚かさと行為の無意味さとを突きつけられ、それによって冷静さを失い、銃を乱射しておっさんを死なせてしまう。だが、このシーンをここまで見続けてきた者としては、女が人違いであると知る前の段階で既に、レッドフィッシュは自身の愚かさと無意味さとを充分に自覚し、噛み締めているように感じられる。だからここでは、新たな事実の前に動揺しつつも、ぐっと持ちこたえるという描写の方が、ずっと、その愚かさや無意味さの(絶望的な)「重さ」が際立つように思われる。(というかごく素朴に、この事実は彼をこれほどまでにキレさせるほどのものなのだろうかねという疑問もある。)ここでキレてしまうのは、安易に「悲劇」の方へ(映画的な方へ)もっていこうとしているように感じられ、あるいは、ラストの、主人公とフランスから来た女の子とのキスシーンとの「対照」のために過剰に演出されたもののように感じられてしまう。それを感じると、彼の父の心中もまた、巧みに操作された物語上のたんなる配置のようにも思えてきてしまう。