●30日にブランクラスでイベントに出ます。「道具について考える」
http://ca-mp.blogspot.jp/2014/10/ewkkkt6.html
今は使っていないけど、以前ぼくは木の枝を筆のように使って絵を描いていた。70センチくらいの枝で、たんに、割り箸ペンのように先端を使うのではなく、斜めにして、いわば枝の「曲り」を利用して描いていた。この感じを言葉で描写するのは困難で、実際にやって見せないと上手く説明できない。で、イベントではこの話をしようと思っていて、しばらく使っていない枝(その当時ぼくはいつも山に入って丁度いい枝を探していたのだけど、結局、ほとんど、最初に出会った特定の枝ばかり使っていた)を探したのだけど、一日探してもどうしても見つからない。愛着のある物なので捨てるはずはないのだが、引っ越しの時に、簡単には取り出せないどこか奥の方へ仕舞い込んでしまったのだと思う(学生時代からの作品を収納している物置の奥に入っているとしたら、今日明日じゅうに取り出すのはほぼ不可能)。で、これがみつからないと、ぼくは明日話すことが何もなくなってしまう(今は、ごく普通の、しかもすごく少ない道具しか使っていない)。明日、もう少し探してみるけど、どこに仕舞い込んでしまったのだろうか。実物がなくて、その話だけしても説得力がないし、上手く説明できるとも思えない。とにかく、あの「枝」の実物のオーラを見てほしかったのだけど……。
●『たまこラブストーリー』をDVDで。これはすばらしい。山田尚子って本当にすごいのだなあと思った。動画で見せるのでも、キャラでみせるのでも、お話で見せるのでもなく、ここまで「演出」で見せるということを前面化したアニメはあまりないのではないか(アニメーション製作上の分担としての演出というより、もっと広い意味での演出)。
『映画けいおん』は、悪くはないと思うけど、制約が強すぎて(例えば、女の子たちがわいわいやっている、という以上の何かがあってはいけないとか、平沢唯は、平沢唯というキャラから逸脱することを一切やってはいけない、というような)、その制約がやはりちょっと苦しいように感じられた。というか、ぼくには退屈に感じられてしまった。でも、この作品は本当に思い切りやり切っているというか、力を出し切っている感じがする。
これは、たまこがたまこではなくなる、というか、たまこのままではいられなくなる話で(『けいおん』を長くやりすぎたので、キャラが変化する話をやりたかったのではないだろうか)、ただそれだけのありふれた話とも言えるのだけど、それを演出の力によって映画として成立させるというのは、五十年代の日本映画の巨匠みたいなことを、現代のアニメでやっているということだと思う。今、これが出来るのは、山田尚子京都アニメーションくらいではないか。
でも、たまこは既にたまこではなくなっているので、『たまこマーケット』第二期はない、ということになるのか。いや、でも『たまこラブストーリー』続編ならアリなのか。