ビデオで、相米慎二の『風花』。相米の新作を公開時に劇場で観なかったのは、考えてみれば初めてのことだ。ぼくにとって相米は最初の映画作家であり、青春の映画作家であるのだ。蓮實を読んだりゴダールに衝撃を受けたり黒沢清に熱狂したりするよりも前に、映画というものが作家というある特定の固有名と結びついているということを、まだ中坊だったぼくは『翔んだカップル』によって思い知らされた。勿論それ以前にもスピルバーグとか黒澤明とかキューブリックとかいうエラい映画監督という人たちが存在することは知っていたし、『未知との遭遇』とか『影武者』とか『シャイニング』とかいう映画を、これはエラい人のつくった映画なのだなあ、と思いながら観てはいたのだが、そのようなクレジットされた名前としての作家ではなく、どのシーンをとってみてもそこにある固有の呼吸のようなものが染み付いているという意味で、相米の映画は否応なく相米慎二という作家の存在を主張しているように当時のぼくには思えた。(それに相米の映画に溢れているある「感傷的な雰囲気」や「不条理な悲しさ」は、若い頃のぼくの「実存」の感覚のようなものにぴったりとフィットしていた。)その後、蓮實を読み、映画史上の傑作をいろいろ観たりしても、ぼくにとって相米はいわば「別格」という感じだった。しかし、青春は終わるものだし、青春の愛情は容易に憎しみ(と言う程のものでもないが)にかわってしまいがちなもので、『光る女』あたりから徐々に違和感を感じるようになって、『夏の庭』で決定的にシラケてしまい、それからは相米の映画とは何となく距離を置きたいという感じが強くなって、とうとう『風花』は観に行かずじまいだった。(何度も観に行こうと思ったのだが、その度に無意識による「抵抗」がある、みたいな感じだった。)
しかし実際に観てみると、『風花』は拍子抜けするほど普通に「へー、いいじゃん」と思えるような映画だった。ここにはもうかつてあった「熱狂」できるような要素はきれいに洗い流されて無くなっていて(だからこそ「普通に」観ることが出来た)、そこにはずば抜けて力量のある映画作家の姿が立ち上がって見えた。冒頭、チラチラと散る桜の木で始まった時には、ああ、また相米だあ、と嫌な感じがしたのだが、しかしその冒頭の長回しのショットは俳優の演技なども含めて素晴らしいもので、そのショットが終わる頃には既にこの映画を受け入れようという体勢が出来てしまうのだった。少しでも相米の映画を熱心に観たことのある人なら分るとおもうのだが、この映画では「相米節」とも言える相米独自の演出の手法が、ほとんど総決算と言っていいほどちりばめらているのだが、かつては細部を際立たせ、リズムをギクシャクとしたものにすることに貢献していた、(祝祭的な、と言えるような時空を生み出していた)相米的な異化の手法とも言えるそれらの演出は、この映画では細部を突出させることなく(まるでどこまでも平坦につづいている北海道の道路のように)滑らかに流れていて、だからと言ってそれが物語に従属しているのではなく、あくまで優れた濃密な「描写」として際立っているのだった。かつては、平坦な土地に亀裂を入れ、波立たせることによって突出していた相米の演出は、ここではあくまで滑らかな流れのなかで濃密な時空を積み重ねることに徹して、それを見事に成功させている。(しかしその描写に引っ掛かりが全くない、と言う訳ではない。例えば、回想として示される、小泉今日子が結婚していた頃の描写などは、いくら何でもダサ過ぎやしないだろうか、とか。この映画にはいろいろな場所にいわば「日本映画的」とも言えるようなダサさや嘘臭さがチョコチョコと顔を出している。相米は基本的にはいわゆる旧「五社」体制という意味での「日本映画」的な感性の人であって、そこが「日本映画」が完全に崩壊したことによって活躍の道が開けた黒沢清以降の作家とは本質的に異なっている。いわゆる「撮影所出身」の最後の世代ということであるのだが。それがある意味強みであると思うのだが、ちょっと気を抜いて相米が「相米節」に安住しようとするとき、どこからかスーッと「日本映画」の幽霊が出て来てしまうのだ。)
この映画について何か書くとしたら、俳優の素晴らしさについて書かないで済ませる訳にはいかないだろう。ぼくは昔から小泉今日子という人が嫌いで、実質的に大した仕事を何もしていないのにも関わらず、ちょっとした才気とイメージ戦略だけで、いつも自分を有利な位置に置くことしか考えていない、という印象があったのたが、この映画で初めて小泉今日子の「ちゃんとした仕事」をみたように思えた。(悔しいことに小泉今日子はいつも「いい」のだけど、その良さが常に中途半端で、計算が透けて見えるところが嫌だったのだ。)浅野忠信については、みんながあまりにも絶賛するのであまり誉めたくはないのだけど、しかしこの映画でもやはり彼は圧倒的に素晴らしいのだった。ぼくは相米の映画をずっと観ているのだけど、相米の圧倒的な演出に対して、俳優がその「演技の質」によって「批評的」であり得たというのは初めてみたように思う。浅野忠信はその演技によって、相米の演出を常に脅かし、脅威を与え続けているように思えた。