ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』をビデオで観た

(昨日からのつづき、ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』について。)

彼らの集団は、「偽」の愚かさを演じる、まるで「偽」の68年の世代のようである。(勿論、それらは映画の為の「偽」のお話であるのだ。)そしてトリアーはそれを「偽」の貧しさによって撮影するだろう。彼らは自分たちがやっていることが「偽」であることを充分に自覚している。この映画は別に「真」の愚かさを賛美している訳ではないし、貧しさこそが「真」だと言っている訳でもない。この映画は、「偽」の『中国女』であり、パロディである。問題なのは「真」であることではなくて、あえてそのようにする、ということ、「偽」という距離感なのだ。しかし、実は何が「真」であり何が「偽」であるかの境界は、それほど安定している訳ではない。彼らにも「偽」という距離感が揺らいでしまう瞬間があらわれるのだ。補助金を出すから障害者たちを隣の市へ移住させろと言う市の職員に激昂する集団の中心人物は、我を失い、まるで彼が演じている知的障害者のように理性を失って暴れ、仲間たちによってベッドに拘束される。愛を確かめ合った女が、いきなり訪れた彼女の父親によって連れ去られてしまうのを、なんとしてでも阻止したい男は、しかしどうすることもできず、まるで白痴のように泣き叫びながら自動車にへばりつくことしか出来ないのだった。「愚かさ」に対して、「偽」という距離感を確保することが出来ず、「愚かさ」とぴったり重なり合ってしまう。つまり実は彼らはたんに「愚か者」であって、外からのちょっとした権力の前では、装うまでもなく「愚か」な行動しか出来ない。愚かさに対して、「偽」という距離が確保できなければ、その「距離感」によって与えられていた祝祭的な解放感を見失わざるを得ないだろう。「真/偽」という安定したフレームに支えられなくなれば、彼らは解散という方向へ向かうしかなくなってしまうだろう。「家庭や職場でも、同じように愚かでいられなければ、何の意味もない」と、彼らの中心的な人物が言い出すのも当然なのだ。

しかし、この集団にはカレンという人物が存在するのだ。彼女は始めから集団のメンバーであった訳ではなく、ふとしたきっかけで彼らと出会い、彼らに惹かれ、外から集団の内部へと入っていった人物である。だから彼女だけは、始めから「個」として映画に登場している。集団のなかにいる時の彼女は、やはり新参者としての違和感もあり、どちらかというと傍観者的な位置、集団のただなかというよりも周縁でそっと存在している感じであった。(映画の中盤、彼女は彼らを「見守る者」として存在していた。)しかし結局は、この集団の「試み」の意味に最も深く貫かれている(憑かれている)のは彼女なのだ。集団という安定したフレームによって守られて、その内部で「偽」の愚かさを演じていることに無力感を憶えた彼らの集団は「家庭や職場でも、同じように愚かでいられるか」という実践を試みるのだが、しかしそれを本気で果敢に実現しようとするのは彼女だけなのだった。半ば部外者として遅れて集団に参加し、しかし解散の後(祝祭の後)もその意味に取り憑かれづけている人物。このような人物が存在していること、祝祭の後にも孤独な実践が持続されること、ただそれだけが、この映画が『中国女』に対してもつ批評性であり、現在性であるのだ。

映画の終盤、カレンの身の上の不幸な出来事が、まるでそれが集団に惹かれた理由であるかのように、タネあかし的に語られてしまう。このことに批判的な人は多いだろうと思う。しかしこれは、彼女が「世俗的な空間」へと帰還したことのあらわれなのだと思うのだ。例えば、集団の内部が描かれている最中は、彼女が集団と行動を共にした期間がどれくらいであるのか、具体的には判然としない。2、3日という短い期間ではないだろうし、1、2年というほど長い期間でもないだろう、ということは分るのだが、カレンダー的には明示されず、規定されない茫洋とした時間の拡がりとして示されている。つまりそれこそが、彼女が集団と共に過ごしている時の時間のあり方なのだ。しかし、彼女が自分の家へ帰ったとたんに、それが2週間であったことがセリフによって示され、時間を捕獲する網目としてのカレンダーによって規定され、固着してしまう。それが世俗の空間を支配している時間であり、茫洋とした拡がりだったものが「2週間」という計測可能で取り替え可能な時間となる。それと同様に、彼女が集団に惹かれた、彼女自身にも判然とはしていない「ある気持ち」は、世俗の空間ではすぐに、メロドラマ的に「子供をなくした悲しみ」という物語に変換され、捕獲され、固着してしまうだろう。世俗の空間では(殊に、彼女が属しているような、「真」に貧しい階層では)、メロドラマ的な物語の捕獲装置が、強力な権力として作動しているのだ。だからこそ彼女は、そのような場所に戻って、そのような場所でこそ「愚かさ」を演じなければならないのだった。彼女が、彼女だけが、「愚かさ」を演じることの真の意味をつかみ取り、それを必要としたのは、彼女が「貧しさ」によって誰よりも強く世俗の空間に縛り付けられていたからなのだった。(当然、そのような場所で「愚かさ」を実践することはひどく困難であるし、それは悲惨な結果しか産まない。しかし、それが必要なのだ。)ほとんどラスト近くで、この映画で唯一のクローズアップによる「切り返し」、カレンと集団の一員であったスザンヌが見つめ合う、という場面が示される。この切り返しによる2つの顔が、この空間は世俗的な空間であり、個々の人物はバラバラに存在していて、あの集団とは違うのだということ、そして、そのような場所においても「試み」は継続されるのだ、ということを力強く示している、とは言えないだろうか。

(しかし、だとすると、この映画の「次」である『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が、あのようなもので良かったのだろうか、という疑問が出てくるのだが。)