いしだ壱成/石田純一/浅田彰

初めて知ったのだが、浅田彰氏のやっている「i-critique」対応について、この日記の8/21の記述とかなりかぶっているコメントがあって、なにしろむこうは天下の浅田彰なのだし、これではぼくが浅田氏のコメントからそのままパクッたと思われても仕方が無いことになってしまう。まあ、そこで述べられているのはごく普通の正論である訳で、かぶったとしても少しもおかしくはないのだが。ぼくはこの「i-critique」を、いくつかの項目についてチラッと眺めただけなのだが、改めて浅田氏の驚くべき博識と揺るぎない「趣味判断」の的確さを思い知らされた。ここで浅田氏は、主に現代のアートなどについて述べているのだが、混迷し迷走していて、とてもじゃないけどある明確なパースペクティブに納めることなど出来ない現代のアートシーン(と言うか「シーン」というのが成り立たない)に対して、個々の作家や作品についてその都度明解な判断を示し、的確な文脈をつけて位置付けを行っている。そしてそれを可能にしているのは、驚くべき博識とともに、自分の趣味判断に対する揺るぎない自信のようなものなのだと思える。勿論、浅田氏は自らの「趣味」を無自覚に振り回しているという訳ではない。それでも、ここには、充分な教養と明晰な頭脳に支えられた自分の趣味判断は、ある程度は「良識」として有効であるはずだ、という自信に支えられた認識がある。批評家としての浅田氏はあくまで「良識」の人であって、対象に深く踏み込んで関わってゆくのではなく、俯瞰的な視点で位置付けを行う。あらゆる場所で「基準」となるものが崩れ去っているような現代において、まともな「良識」による価値判断を示すことが出来るというのはとても貴重なことではあるし、その良識による判断は、おそらくかなりの確率で「正しい」のだろうとも思う。しかし(昨日の日記でもチラッと触れたけど)ぼくはどうしても、浅田氏の批評のなかでの「趣味」の機能の仕方に引っ掛かってしまう。「趣味」が悪い、と言うのでもなく、「趣味判断」をするのが駄目だ、と言うのでもなくて、批評文の持続のなかである瞬間に自分の趣味を発動させる時の、そのやり方が、何か人を上手く言い包めるような感じ、と言うか、「これはボクの趣味なんだけど当然キミも受け入れるよね、ボクの趣味はボクの博識に裏打ちされてるんだもんね」みたいなニュアンスが漂ってくる感じなのだ。(勿論、文章そのものはそんなにエラソーなものではなく、むしろ読者にとても親切なガイドという感じなのだが。)論証抜きに、「趣味」を自明のものとして出してくる、と言うのか。つまり、それに反論するには、浅田氏の趣味の悪さについて言うしかなくなってしまう、みたいな。ちょっと前に、映画批評なんかで「才能」という言葉が、作家や作品を切って捨てる時の重宝なキメの言葉として乱用された事があったけど、勿論そこまで乱暴ではないにしても、それに近い感覚がもっと洗練された形で出ているように思えてしまう。繰り返すが、それが必ずしも批判されるべきことだとは思わないし、そういう良識ある人物の存在によって「何か」が保たれているというのも事実だとは思うのだが、ぼく個人としては、どうしてもその引っ掛かりを消すことが出来ないのだった。(例えば『BT』に掲載された「原宿フラット」の座談会で、村上隆氏の作品について、村上氏のデザイナー的なセンスの良さについて、あたかもそれが「決定事項」であるかのように、それに対する反論などありえず、あったとしてもマイナーなとるに足りないものでしかないように、サラッと口にして済ませてしまう。サラッと口にすることで、それが万人が認める「事実」であるかのようにその場を支配してしまう。そしてそのことが、村上氏の作品に対する批評的な言葉をそこでストップさせてしまうように機能する。鋭敏な村上氏がその危険を察知して、「ぼくの作品がデザイン的にセンスがいいとしたら、それはたんにデザイナーに発注してるからだ」と反論してももう遅くて、すくなくともその場においては、「センスがいい」ことは揺るぎないこととなってしまう。浅田氏の正しさは、しばしばそのように発展する余地を塞いでしまう。それに「センス」とか言っちゃうと、自信のない人にはなかなか反論できなくなってしまうのだ。しかもその発言が他ならぬ浅田氏から出たものであれば尚更だ。)