ラース・フォン・トリアーの『イディオッツ』をビデオで観た

ビデオで『イディオッツ』を観た。ぼくの観た、ラース・フォン・トリアーの映画のなかでは一番面白かった。(『奇蹟の海』『イディオッツ』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』で3部作になるらしい。)この映画のラスト、クレジットが示されるところで、唐突に撮影中のスナップみたいな形でクレーンが画面に映し出される。しかし全編手持ちカメラで撮影されているこの映画で、クレーンなど使用されている訳がない。真っ青な空に高くのびるクレーンを仰角で捉えたこのショットを観て、誰もが思い出すのはゴタールの『ワン・プラス・ワン』だろう。つまり何故ここで不自然な唐突さでクレーンが登場しなければならないかと言うと、恐らく「ここに(60年代後半の)ゴダールを読み取れ」ということであるように思う。そしてここで関連を読みとらなくてはならないゴダールの作品は、『ワン・プラス・ワン』ではなくて明らかに『中国女』であるだろう。そう考えると、この映画があからさまに『中国女』のパロディとして作られているのが分る。映画の「上品な」観客であれば、この作品の途中に何度も、事後的なインタビューの映像が挿入されることに違和感を覚えるだろう。しかしそれも、『中国女』の形式を律儀に踏襲しているのだと考えると、思わず口元が緩むのではないだろうか。なんだ、そういうことか、と。

実際、この映画は90年代の終りに制作されたとは思えないほど、いわゆる68年的な雰囲気が濃厚にたちこめていはいないだろうか。これは「ある先鋭的な試み」をする小さな集団についての映画だ。その「試み」とは「自らの内なる愚かさを解放するために《白痴》を演じる」ことだ。彼らは知的障害者を装って、レストランやプールで暴れまわり、近所に住む金持ちたちから、恐喝同然に金を巻き上げる。だから勿論これは、「内なるナントカ」と言うよりも、彼らを異物として「腫れ物に触る」ように扱う社会への挑発であり、異義申し立てであると言えるだろう。しかし実は彼らも皆ブルジョワであり、医者や美術の教師や広告プランナーといった、いかにもインテリ階級的な仕事を持っている。彼らは集団の中心人物の「叔父」が所有している、高級住宅街の一角にある家で共同生活している。つまり彼らの精神の「解放」も社会への「挑発」も結局、自分たちをしばっているブルジョワ的な規範への反発に過ぎず、言ってみればお坊っちゃんがダダをこねているのと変わらない。(彼らのもとに「本物」の知的障害者が訪れると、彼らは演技を続けるどころか、同席しつづけることすら耐えられなくなってしまう。)と、ここまでなら、ほとんど『中国女』の、30年遅れた間の抜けたリメイクでしかないだろう。

この映画の『中国女』に対する新しさは、2つほどあると言えるだろう。1つめは、この物語によって表象された集団と、監督であるラース・フォン・トリアーとの位置関係と言うか、距離の取り方であり、もう一つは、はじめは集団の外にいて、後から集団に加わった、集団の内部の人物とはやや異なった存在であるカレンとい人物が登場していることだ。(このカレンという人物の存在こそが、この映画で最も重要な要素であり、意味であるだろう。)

boid.netに掲載されている文章(http://boid.pobox.ne.jp/special/idiots_aoyama.htm)で青山真治氏は、『イディオッツ』や「ドグマの誓い」と、ファスビンダーとの関連をみてとっている。しかし、ファスビンダーの映画における画面の「荒れ」は、貧しさによる、低予算・早撮り・自転車操業という「強いられた条件」によるもので、その強いられた条件を受け入れ、逆手にとることによって、それを「武器」にもし得る、という闘い方のあらわれであるのに対して、トリアーのデジタルビデオによる画面(ドグマの誓い)は、すくなくとも彼が『ヨーロッパ』などのような、凝り過ぎるほど凝った画面をつくることが可能な「位置」にいる人物(アート系としてはかなりのヒットメーカーだし)であることを考えるなら、強いられたものではなく、あえて選択された貧しさなのだ、と言うべきだろう。つまり、ファスビンダーが「たんに貧乏」なのだとすると、トリアーは(ドグマの誓いは)「金持ちの貧乏趣味」あるいは「装われた貧しさ」ということになる。そのような意味において、『イディオッツ』の監督であるトリアーと、「装われた愚かさ」を演じているその登場人物たちは、とても近い位置にいると言えるだろう。だから『中国女』においてゴダールが、その登場人物(撮影対象)である学生たちに対して、共感と同時に自分との「位置」の差異を感じている(示している)のとは違っている。『イディオッツ』において、登場人物と監督とは、ほぼ一体化しているようにさえ見える。(まあ、それは錯覚なのだか。)この映画は登場人物たちを常に一纏まりの「集団」として捉えているようにみえる。ショットをきれいに割らず、回しっぱなしの手持ちカメラによる撮影や、無秩序にもみえる(実はそうではないのだろうが)ジャンプカットの多用などがそれを一層際立たせている。(この意味では、同じドグマの作品でもあくまで1人1人の人物の関係から集団=家族を描こうとしている『ジュリアン』のハーモニー・コリンとも、違っている。)映画の冒頭、彼らは全くの「群れ」であって、未分化な塊のようだ。そのうち徐々に、個々のキャラクターのようなものが浮かび上がってみえてくるのだが、それはカメラが1人1人を個人として切り取ることによってではなく、集団がまずあって、そこから波頭が立ち上がってくるように1人1人がみえてくる感じなのだ。常に「群れ」が先にあるのだ。(勿論、引いた構図ばかりではなく、個々のクローズアップも多いのだが、それは明確に整理されたクローズアップではなく、ぐちゃぐちゃな状況のなかで個々の顔=表情が唐突にポツポツと浮かび上がってくるような感じのクローズアップなのだった。だいたい一般的にみても、クローズアップの多用というのは、個々を際立たせるよりも、人物の関係を分り難く錯綜させる方向に作用することが多いように思う。)逆に言えば、かなりルースなカメラで、常に集団を塊として捉えているにも関わらず、これだけ個々のキャラクターが混乱せずに見えてくるというのは、トリアー氏の演出が相当に高度なのだと言えるのかもしれない。

(まだ続きそうなので、つづきは明日。)