●約束していたいくつかの原稿をとにかく締め切り前までに送信出来たので少しほっとして、『ビー・バップ・ハイスクール』(那須博之)をDVDで観た。風景と喧嘩のユートピア。ぼくにとってこの映画のシリーズの世界は幻想のユートピアで、ぼくは本気で、この映画の風景のなかで、この映画の登場人物の一人となって、お前、このオレ様を誰だか分ってガンとばしとんのか、あー、とか、姉ちゃん、乳もませろや、とか言って、喧嘩することとお姉ちゃんのケツを追い回すことだけに関心をもって生きてゆけたらどんなに幸福かと思っているらしい(あの運河沿いの道を歩き、いかにも田舎っぽいデパートの屋上でデートし、コーヒーハウス・ダカーポでたむろし、学校の屋上でタバコを吸い...)。なにも、トオルやヒロシでなくてもいい。ノブオでもチュウジでもいいし、場合によっては(順子からふられつづけ、コケにされつづける)菊リンでもいいから、この世界のなかにいたい、と。
勿論、この映画でも、トオルとヒロシとその仲間たちは、ただ幸福な微睡みのなかでたむろしてるわけではない。彼らがあまりに喧嘩が強いこと、彼らがあまりに社会的上下関係から自由であること(上下関係に配慮しないこと)は、彼らの周囲にいる、権力志向の強い生臭い「男たち」にとっては、彼らを倒すことで自分の「名を上げる」ための格好のターゲットであるだけでなく、自らが属する世界の秩序を揺るがす許し難く目障りな存在でもあり、よって彼らは常に、必ずしも自らが望むわけではない「男のメンツ」をかけた抗争に巻き込まれるのだし、その敵の攻撃は常に生臭い権力欲と結びついていることで、えげつなく、フェアでもなく、不快なものだ。
だから、彼らの喧嘩は必ずしも純粋に遊戯的なものとは言えない。「一年は全部オレが締めた」とか、「愛徳なんかにナメられて黙っていられるか」いう種類の、自分と自分の属する集団との同一化(あるいは、自分と、自分が信じる価値体系との同一化)によって作動するようなメンツや権力欲は、ごく普通の、典型的な神経症的転移の作用であり、この力の圏内にいる者にとって、そこから自由であるように見える人物は、まるで自分自身を否定されたかのように不快であり、そのような人物そのものを否定できなければ自らの依って立つところ(象徴的な秩序)が揺らいでしまうような不安を惹起する存在であろう。人間の社会が基本的に神経症的な転移の作動によって成り立っている以上、トオルやヒロシのような神経症からの自由(あるいは神経症への無関心)は、常に周囲の者の敵意と嫉妬の対象となり、つまり「目障り」であり、感情的に許せない、ということになるのだ。
とはいえ、神経症的な磁場から自由に動く者が、神経症的な人間関係から圧力をかけられるという物語は、物語の典型の一つであり、ありふれている(自らも神経症的な磁場に縛られている者さえも、というかそういう人こそ、「物語」としては、そこから自由な人をみることを好む)。この映画シリーズが魅力的なのは、トオルやヒロシたちが決して望んだわけではなく、否応なく巻き込まれる、メンツや権力欲から発したはずの抗争が、神話的な悲劇の方へはゆかずに、いつの間にか、まったくバカげた、純粋に遊戯的な喧嘩(アクション)の連なりへと変質してしまうところにある。それは本当に幸福な光景だ。おそらく、現実にはこのようなことが起こることはほとんど望めず、だからこれは映画だけに許される幻想のユートピアなわけだけど。
この映画のアクションは、特権的な身体(特に動きの切れる俳優やスタントマン)によって演じられるのではない。昨日まではたんに街の不良だったような素人のお兄ちゃんたちが、とんでもなく「無茶をする」ことで成り立っている。映画を観ていて、こんな撮影をしていて、よく大きな事故とかがなかったものだと、そういう意味でもドキドキする。おそらく、かならずしも動きが切れているわけでも、アクロバティックなわけでも、演出が洗練されているわけでもない(リズムとかけっこうだらっとしているのだが、そこが良い)、この、「素人が何も知らないまま無茶しちゃってる」感じ、「無茶を無茶と知って押し通しちゃってる感じ」こそが、この映画シリーズのアクションを、奇跡的なまでに幸福なものにしている。こんな撮影は今ではとうてい出来ないんじゃないかと思える、実際に路線を走っている電車のなかでの乱闘シーン(走っている電車から人が河へ落下するところを、電車の内側からワンカットで捉えたカットなどは、掛け値なしに凄いくて、これが映画なんだと思う)や、ラスト近くで、喧嘩の進行のなかで工事現場のプレハブの詰め所が破壊されるシーンなどは、人間たちの関係が生み出す抗争が、ナンセンスで物質的な運動に還元されてしまう幸福が実現されていて、映画ってすけえなあと、思うのだった。