早稲田文学9月号のスガ秀実/芸術的労働と無為

早稲田文学の9月号でのスガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』では、宇野経済学と赤瀬川原平による「模型」千円札に触れて、芸術と労働力という、「等価交換」というフィクションを危うくする2つの特異な「商品」について述べている。(宇野経済学では、商品Aが商品Bの使用価値によって表示されるという場合、商品Bは商品Aの所有者の「欲望」の「表現」とみなすべきではないか、という考えによって「等価交換」という概念が破壊される。)芸術の制作という労働(あるいは芸術作品という商品)においては、商品の交換価値が、そこに投与された労働量で測られる、とすることで成り立っている「抽象的人間労働」というフィクションが成立しない。(同じような絵を同等の技術・労力で描いたとしても大家と無名の画学生とではその交換価値に膨大な開きが生じる。または、赤瀬川氏が3ヶ月かけて胃痙攣を起こすほどの労力でつくった「畳一畳程の偽千円札」と、同氏が展覧会の会場でササッと作った「梱包」は、作品としてはあくまで同等である。)それは資本制の等価交換という論理がそこで挫折せざるを得ないデッドロックなのだが、逆に資本制は「芸術商品」を自らの限界として(外部的な支えとして)設定することで、その内部を構造化することが出来る、という意味では、資本制は芸術を必要としている。(だから資本制を批判しようとする「芸術」は必ず失敗する。)そして「労働力」という商品もまた、芸術と同様に「等価交換」というフィクションにあてはまらない特異な商品である。労働者の一日の労働の対価は、不況下のマイノリティー系労働者のように、労働力を再生産するのに足りない程のものでも、一部のテクノクラートのように莫大なものであっても、極端に言えばパン一個であっても、それらは全て等しく等価だとみなされてしまう。(このような「労働力」という商品の特殊性によって「搾取」が可能となり、資本主義社会は「成長」することが出来る。)《労働力商品は、それへの対価がいかなるものであっても「等価交換」であるという意味で、もっとも資本制市場経済にふさわしい商品であり、いかなる等価交換も論証できないという意味では、商品経済が破綻するデッドロックでもある。(スガ秀実)》だとすれば、資本制市場経済への批判は、労働者が自らを「労働力」としてではなく「ジャンクな芸術家」として規定して、「労働」ではなく(バタイユ=ナンシー的な)「無為」を行う、ということによって可能になるのではないか、と。勿論ここで言う「芸術家」とは、その作品によって「世界の真実」を開示するような者でも、「美」を実現する特別な技術をもった者のことでもなく、《「町内に必ず1人や2人いるやや変質的な奇行のオジさん」のたぐいが出品する「廃品類の奔流」によって「自己破壊にまで至った」》のだと言う「読売アンデパンダン」的な、単なる「廃品」(=無為)を制作するようなジャンクな芸術家である訳だ。おそらくスガ氏にとっての「68年的なもの」の可能性というのは、「(ジャンクな)芸術家」としての「労働者」の生産する「無為(=廃品)」によってこそ資本主義への批判が可能になる、という一点に集約されるのではないのだろうか。(だから「J」はあくまでジャンクでなければならず、「J回帰」つまりジャンクなジャパンへの回帰であってはならないのだ。)

だからこそ、赤瀬川氏を中心としたネオダダ・オルガナイザースやハイ・レッド・センターなどの「反芸術」的な前衛美術家集団の活動から、「反芸術」というニュアンスを差し引かなければならないのだろう。(アンチ巨人が「巨人」の存在によって可能であるように、または、高橋源一郎氏の感傷的=反動的な「文学主義」に、一見して距離を置いているようにみえる大塚英志氏の「ぼくは文学に直接的に触れることはしないよ」というスタンスが、実は「文学」を「聖域化する」という点で表裏一体であるように、「反芸術」は「芸術」という枠組みを認めた上でしか可能ではない訳で、つまりジャンク=無為にはなりきれないのだ。)確かに赤瀬川氏やハイ・レッド・センターの活動の一部にスガ氏が指摘するように「反芸術」の範疇を超えるような可能性があったとしても(「偽千円札」や「首都圏清掃整理推進運動」のように「ただ似ている」ということの暴力性を提示し得たものとか)、しかし基本的には彼らの活動は、「反芸術という芸術」という範疇にあるものであって、だからこそ赤瀬川氏は『父が消えた』後では、前衛美術家としての活動を停止しなければならなかったし、ハイ・レッド・センターのメンバーであった中西夏之氏は、現在、日本のファインアートの画家としては最も高い値段で作品を売る画家の1人である(「売れている」のかどうは知らないけど)と同時に、芸大の教授でもあるという、芸術内部での「父」の座に納まることになるのだ。ぼく個人としても、60年代の前衛美術家たちの、ジャンクなものとしてのアッケラカンとした即物的な明るさに強く惹かれもするし、憧れさえ抱いているのだが(彼らの作品は今観ると本当にみすぼらしくてクズなのだ。しかしだからこそ「開かれた」感じがするのだ。)、しかしそれはあくまで、「芸術」というものが強力なものとしてあった上での「反芸術」であって、言ってみれば「芸術」という枠組みによって守られたノーテンキさであったのだと思う。例えば、現在、「反芸術」など少しも信じられない村上隆氏などは、もっと直接的に「資本制市場経済」と格闘しなければならないので、赤瀬川氏のようなアッケラカンとした明るさとはほど遠く、もっと姑息に嫌らしく立ち回る(「無為」ではない「労働」をする)訳だが、その「姑息な嫌らしさ」は現在ある程度は不可避であるとさえ思われる。(しかしぼくとしては、村上氏の作品に一定の評価と興味とを持つものの、決して「好き」にはなれない。赤瀬川氏や中西氏の方がずっと「好き」ではある。)だからぼくには、スガ氏による「ジャンクな芸術家としての労働者=オブジェを持った無産者」というイメージが資本主義に対する批判としてどこまで有効なのかは疑問なのだ。しかし、「芸術批評」としてこの文章を読むとすれば、例えば浅田彰氏のような、妙に中途半端な腰の座らない感じながらも高邁な趣味に居直っているみたいなものよりも、ずっと刺激的で面白いと思うのだ。

(それにしてもスガ氏のこの文章は、同じ雑誌の同じ号に掲載されている鎌田哲哉氏の文章と好対照で、まるで狙ってやったみたいだ。)