●下手をするとデザイナーという職種があと1、2年くらいの内に成立しなくなってしまうのではないか、というような話を聞いた。これまで、機械化によって失われるのは工場労働のような仕事だと思われていたけど、それが、高い専門性や創造性を要する職種にまで、しかもかなり急速に波及しはじめている、という。実際、ウェブデザインをしている人などは既に苦しくなっている、と。
近いうちに、人工知能がかなりヤバいことになる、人間のする仕事がどんどんなくなってゆく、という話は、いわゆるビジネス書を読むような層の人たちの間で広がっていて、「東洋経済」とか「エコノミスト」といった雑誌にも、人工知能やシンギュラリティに関する記事が(しかも高い頻度で)出るし、とうとう「週刊文春」にまで、シンギュラリティが来たら人類はマジでヤバいという(竹内薫による)記事が出ていたという。
特定の機能に限定するならば、人工知能(特化型AI)は既に大抵のことは(特別な才能をもった人ではない)普通の人よりもずっと上手く出来る。あとはコストの問題に過ぎない、ということになれば、あらゆる労働の場で(疲れることも飽きることもなく文句も言わない)機械が人にとってかわるのは時間の問題だろう。それは逆から言えば、人間が働かなくても生産が間に合うということで、人間が労働から解放される(ユートピア)ということなのだけど、労働から解放された結果として、お金を得る手段を失う。
極端な予想をたてれば、機械を設置する「土地」と労働・生産する「機械」を所有している資本家と、機械やモノを生産するために必要な「資源」(レアメタルとか)を所有する者だけがお金を得ることが出来、そして、その少数の資本家たちの間だけで閉じた経済が成立する(その閉じた経済圏が世界の富の大部分を占める)。労働者たちは、労働しなくてもよいので資本家から搾取されることもなくなるが、資本家たちの経済圏から完全に切り離される。資本家たちの経済圏に食い込める少数のエリート(こういう人がいないと技術進歩の可能性が担保できないので、資本家にとってもエリートの養成は必要)を除き、大部分の人にとって、お金を得る方法がなくなる。そういう未来予測になる。既に世界は、半ばそんな感じではあるが。
(高度な情報化によって情報は供給過多となり、ほとんどの情報やコンテンツは限りなく「無料」に近づき、故にほとんどのクリエイターは没落し――追記・没落というか、たんに「経済的に成立しなくなる」という程度の意味です――、「物」をもつ者のみが優位に立つのではないか。レアな情報とは、アクセスはできても難しくて理解(処理・使用)できないという種類の情報となり、故に、価値があるのは情報そのものではなく、莫大な、あるいは難解な情報を理解(処理)することのできる「頭の良い人」ということになるのではないか。とはいえ、ほとんどの人よりも人工知能の方が頭が良いとすれば――例えば「ビックデータ」の処理は人間の頭では出来ない――最も技術的に進んだ、処理能力の高い機械(物)を持つ資本家が常に勝つことになり、それに対しては、まったく新しい価値をつくりだせる本当に特別な天才のみしか拮抗できないことになる。)
これは、技術と資本の問題であるから、この問題からはおそらく世界中のどこにいる人も逃れられない(様々な条件の違いによる時間差はあるし、人間の短い一生を考えれば、その「時間差」は決定的な違いだ、とも言える)。我々の前に再び姿を現した「大きな物語」というのは、こういうものではないかと思う。そしてこれが技術と資本の問題であるならば、この問題について考えるためには科学技術と経済への一定の知識が必須のものとなる。
(「働かざる者食うべからず」という感覚を徹底して駆逐しないと、多くの人が不幸になると思う。こういうことが言われる局面では大抵、弱いもの同士が、小っちゃい利益を奪い合って、憎しみ合い潰し合っているような場面だと思われる。今の日本の「空気」もそれに近いように思われる。だが、経済学者の井上智洋さんは、ニートのような「働かない人」は、マクロ経済的にみれば経済にまったく何の悪影響も与えていない、と言っていた。もし仮に、その人ががんばって就職できたとして、代わりに他の人が失職するだけだから。個人の努力の問題ではないのだ。)
人類は技術の進歩によってその生産能力をどんどん拡大させてきた。にもかかわらず、依然として多くの人が貧しいのは、生産性の問題ではなく生産物の再分配が上手くいっていないからだと言える。我々は既に、足りないものを奪い合っているのではなく、十分にあるはずのもの(少なくとも飢えないで生きてゆける程度にはあるはずのもの)を、うまく分けることが出来ないで困っている。
技術と資本主義はおそらく、生産性の拡大という意味ではかなり上手くいっている。なにしろ現在では、人間が機械によって労働(何かを生産しなければ生きていけないという呪縛)から解放される、その一歩手前まで来ているようさえみえるくらいなのだから。機械が生産を担当してくれるのなら、人間は、瞑想や芸術や哲学や快楽や趣味にかまけて生きていられるし、あるいは社会奉仕に身をささげることもできる(だがそれは、シンギュラリティが訪れるまでのごく短い期間かもしれないが……)。しかし、生産したもの、あるいは生産可能なものの再分配という意味ではかなりひどいことになっている。富は一部に集中し、労働から排除された人間は(経済圏から切り離されるので)孤独になり、飢えて死ぬしかないことになってしまうから。そして、そのような人が(景気や政治の動向とは関係なく)「技術の進歩」によって今後急速に増えるのだとしたら…。
大きな物語、あるいは大きな問題とは、だから、「再分配」の問題なのだと思う。そしてそれは、たんに社会保障とかセーフティネットという概念ではカバーしきれないものになると思われる。一部の、システムにのっかれなかった人の救済ではなく、大部分の人が「働く必要がない」という状態になった時に、その働かない「大部分の人たち」へも十分な分配がなされるべきだ、ということになるから。そのようなものを、どうやって社会的に機能させられるのか考えるのは、とても困難だと思うけど――とはいえ、技術進歩と資本主義によって、最先端機械による労働によって、社会全体としての生産性は維持されているはずなのだ――これが実現されなければ、「大部分の人たち」が不幸になる。それは、働かない人への救済ということだけではなく、「社会全体の利益」としても必須であるはずだ。
(おそらく、最後まで残り得る仕事は、対人的なコミュニケーション労働ではないか。介護、看護、接客、芸能、水商売、性風俗のような仕事においては、人は人によって対応されることを望むだろうから――とはいえこれらも、機械+バーチャルイメージで代替可能だが。近いうちに、特別に頭のいい人以外の人間の仕事は、コミュニケ―ションくらいしかなくなるのではないか。それはぼくにとっては地獄だが。)