●お知らせ。電子書籍『フィクションの音域 現代小説の考察』の宣伝ウェブサイトに、青木淳悟『男一代之改革』の書評、「結節点と通路・幽霊的志向性」をアップしました。「立ち読み」というコーナーです。初出は「すばる」2014年10月号、このテキストは本には未収録です。
http://oniki.webnode.jp/
それから、「note」には、写真関連の仕事をいくつかアップしています。
https://note.mu/furuyatoshihiro
●もう一つお知らせ。blanClassで毎月やっている連続企画のイベント「えをかくこと」の六回目「道具について考える」に参加することになりました。
場所は横浜のblanClass。日時は、10月30日、16:30-19:00、19:30-21:00(途中参加/退出可)。出演者は、末永史尚、佐々木健五月女哲平、古谷利裕、益永梢子。 企画、大槻英世。
http://ca-mp.blogspot.jp/2014/10/ewkkkt6.html
●「攻殻」の「笑い男」を久々に観直した。これは「オリジナル無きコピー」の話ということではあるだけど、コピーの一人であるはずのハッカーが、ハッカーとしてすご過ぎる上に、行動力もあり、「笑い男マーク」もこの人が考えたとすると、一人だけとびぬけていて、結局この人がオリジナルなんじゃないの、となってしまうところが(そのようなテーマの作品として観るならば)弱いといえば弱い気がした。この名前のないハッカーが行動を起こすきっかけは、ネットを覗き見している時にたまたま拾った「セラノ・ゲノミクス社を糾弾するメール」で、そのメールに込められた「正義感」が感染してしまっただけだ、ということ(「動機」は内発的ではなく借り物)であったとしても、セラノ社長を誘拐するやり方や、「笑い男マーク」のオリジナリティ、そしてそのハッキング技術の高さは、その後の模倣者たちのものとは確実に違っている。この無名のハッカーは、名前はないとしても、キャラとして強いオリジナリティをもってしまっている。
(自ら「笑い男」と名乗ったわけではないとしても、「笑い男」とは結局はこの人のことなのだ。)
だからこれは、オリジナル無きコピーの増殖の話というより、オリジナルな出来事の「匿名性」の話であり、「消滅する媒介者としてのオリジナル」という話と考えた方が良いのではないか。出来事を起こしたのは「(他ではない)この人」なのだけど、その出来事の「オリジナリティ」が多くの模倣者を触発し、その結果、その伝播と連鎖の波にのまれて、オリジナルの名も所在も意思も見えなくなってしまう、というような。しかし、それによって「オリジナリティー」自体が消えるわけではない。最初の事件と、それにつづく一連の事件とが、まったく違った感触をもつことは、外からでも見る人が見れば「分かる」ものなのだ。
公安九課は、公安九課という組織を犠牲にし、検察にその手柄を譲ることによって、彼らが解明した「悪」を表に出すことに成功する。アラマキは「名を捨てて実をとる」というようなことを言う。実際には九課のメンバーの努力や力によって解明された事件なのだが、しかしそのことはどうでもよく、「悪」が表に出て裁かれるようになることこそが重要である、と。誰の手柄なのかはどうでもよく、何がなされたかが重要である、と。
「誰がなしたか」ではなく「何がなされたか」が重要である。これは、最初の事件にだけ「オリジナリティ」があるということこそが重要なのであって、それを起こしたのが「誰」であったかはどうでもいい、という「笑い男」の行動と重なる。「名」は消え、「出来事」だけが連鎖する。つまり「名」の問題ではなく「出来事」の問題なのだ、というのが、この作品に貫かれた態度であるように思われた。
(そのような意味では一貫しているのだが、この作品では、「名」の問題と「固有性」の問題とが時に混同されているような感じはある。)
●とはいえ、このオリジナルな出来事の「オリジナリティ」は、確かに反復される。草薙素子によって、そしてトグサによって(トグサと笑い男は同じ声優によって演じられているように聞こえる――笑い男の声はクレジットされていないが)。つまり、「笑い男」の真のコピーは草薙素子とトグサだけであり、他は皆劣化コピーに過ぎない、ということになる。オリジナルに対し真に拮抗し得る反復と、ザコの劣化コピーは違う、と。(妙な言い方だけど)真正のコピーはオリジナルに負けないオリジナリティを持つ。真正コピーと雑魚コピーを分けるところに、神山版「攻殻」のエリート主義的な側面がうかがえる(追記・それを「アバンギャルド」と「キッチュ」だとすれば、神山攻殻モダニズム的であるといえる)。
スタンド・アローン・コンプレックス(チームプレイなどなく、スタンドプレーの結果としてのチームプレイがあるだけだ)というコンセプトが、まさにエリート集団としての公安九課の性格を表している(彼らは、「名」は持たないがそれぞれ強い「実」をもつ)。そして、九課が相対する相手(敵)もまた、それぞれに強い固有性を有する特別な存在たちであり、その関係は鏡像的である。つまり基本的には「強い個」たちが互いに互いを鏡像的に映し合うというのが、神山版「攻殻」の性格なのだ。それが、ドラマとしての強さや面白さを生むのと同時に、ある限界でもあるように思う。つまり、基本的には古典的な物語へと収束するようにみえる。
だから、オリジナル無きコピーの無限増殖のような感触は扱えない。「笑い男」でも、実はオリジナルの重要性こそが問われている物語にみえる(それが悪いと言っているのではない)。