●昨日の「笑い男」の話に少し付け加えるとすれば、この物語で問題になっているのは以下の三つのことだと考えられる。
(1)動機の感染性(なぜ、他の「悪」ではなく「電脳硬化症問題」が問題となるのかは問われない、たまたま出会った他人の動機が感染するだけ)、(2)行為の質の違い(同じような「感染された動機」から起こされる行為でも、それを起こす人によって行為の優劣という差が生じ、オリジナリティの有無が問題となる)、(3)「名」の消失(行為の質の違い、オリジナリティーの有無は問われず、どの行為も一様に「笑い男」という名に帰することになる)。
オリジナル無きコピーの無限増殖という感触は、(1)にあって、この局面では中枢を持たないネットワークそのものの感触が問われる。だが、この作品ではここはあまり問題いとならない。(1)から(2)への移行が、「攻殻」の一貫した主題である「たんに情報が流れているだけのネットワークから自然発生的にゴースト(中枢)が生じる」ということに対応すると言える。だから、(2)の側面においては、オリジナリティー=ゴーストが問われる。しかし、(3)の局面において、オリジナリティーは決して「名」によっては捉えられない、というところに帰結する。笑い男(オリジナル)も、公安九課も、そしてタチコマたちも、真のオリジナリティをもつ者は皆、「名」を持たない、あるいは失う(オリジナルも劣化コピーも等しく「笑い男」と呼ばれ、九課は名を捨て実をとり、タチコマたちにははじめから個別の名がない)。
だからおそらく、この作品から生じる最も重要な感触は、固有名はオリジナリティーを捉えられない、固有名とオリジナリティーは常にすれ違う、オリジナリティーは「名」をもたない、という感触なのではないか。