●住んでいるのが田舎なので、ハロウィンといっても買い物に行くスーパーの店員が変な先の尖った帽子をかぶっているくらいのものだったけど、YouTubeで渋谷の映像を観たり、あと、qpさんのブログを観たりすると、これはすばらしいことなのではないかと感じる。
https://www.youtube.com/watch?v=NR2Yz3x9EJY
http://d.hatena.ne.jp/com/20141101
●以下に書くことは、大した根拠も情報もなく考えたことなので的外れかもしれない。
VR(仮想現実)とAR(拡張現実)との違いは、VRはこの世界とは別の世界をつくってそこに没入するという方向だが、ARは「この世界」のなかに別の世界を付け加えるという方向だといえる。いわば、この世からあの世へ向かおうとするイメージと、あの世のものがこの世にあふれ出てくるというイメージの違い。前者は、この世とあの世という形で世界を分離・並列化させ、後者は二つの世界を混ぜ合わせる。前者はあの世へ向かう内省的傾向を持ち、後者はこの世を、とにかく「この場所」を魔法化するという傾向をもつ。乱暴に言えば、前者はオタク的であり、後者はリア充的であると言える。ハロウィンの渋谷は、明らかに後者の傾向が強いと言えるだろう。
おそらく、オタク的なコミュニティ(人間関係)が、作品や作者、あるいはジャンルやキャラに対する「ファン」であることを軸に築かれる傾向があり(ファン・コミュニティの形成)、それは必然的に「ニワカ」であるよりも「通」であることが目指される、つまりクオリティが問われる方向をもつ。対して、リア充的な人間関係においては、最も重要なのは「身内の人間関係」であり、あらゆる事柄はその関係を楽しいもの、円滑なもの、よいものにするための道具として利用される(それ以上のものは求められない、というか邪魔になる)。仲間との関係が重要であり、そのために「使える/使えない」が問題になる。コスプレにしても、重要なのはそのクオリティやオリジナリティではなく、みんなで一緒にそれをする点にある。クオリティの高い集団もあれば、低い集団もあり、だが、それらは等価であり、それぞれの集団内で統一されていればよいと言える(ものすごく作り込まれたものでもよいし、たんにドンキで買ったものをみんなで着ているだけでもよい)。
集まってくるそれぞれの集団の動機は、仲間内の関係の強化であり充実であろう。それは、カップルが付き合って一年の記念日に特別なイベントをする、とか、誰かの誕生日をその友人たちで祝うパーティーを開く、ということと変わらないように思われる。それが、「誰かの誕生日」という個別の動機ではなく、「ハロウィン」「渋谷」という多くの人に共有される動機へと変換される。それによって、自分たちの身内の関係強化のためのイベントが、多くの他グループたちの関係強化のイベントたちの集合体という大きなものの中に含まれる、という特別なシチュエーションが生まれる。おそらく、日本にハロウィンを定着させようとする動きには、広告代理店的仕掛け人が存在するのだろう。しかし、渋谷で起こっているようなことを、そのような仕掛け人の存在に帰することはできないように思われる。
例えば、ワールドカップやオリンピックの時も、同様な喧騒が渋谷では起こる。しかしそこには、日本代表の勝利という、明確な共有された目的が生じてしまう。それにはかなり危険な(統一的に操作されている的な)においが漂う。しかしハロウィンにおいては、彼らが集まるのはたんにハロウィンだからという理由のみであり、そういう日なのだから、ただ集まって盛り上がるためにだけ集まることになる。ハロウィンではたんに、その日、その場所が指定されるだけで、それぞれがそれぞれの身内の盛り上がりのみを目的として集まってきて、それを無理やり統一しようとする目的が生じない。自分たちの身内の盛り上がりのことしか考えていないそれぞれの集団たちが、たまたま、ある日、ある場所に集まることによって、意図にはない相互作用が生じ、この世界の風景をまったく別物のように変えてしまう。これこそまさに死者たちの効果なのか。
これは勿論、一時の幻でしかないのだけど、この世界にはこのような幻が出現する一瞬があるのだということは、それだけで充分にすごいことだと思える。「祭り」というのは、まさにこういうものなのではないか。
●ハロウィンの映像を観てすばらしいと思う一方、もし、今、ぼくが若者だったらすごく辛いだろうなあ、学校に行けなくなってしまうだろうなあ、とも感じる。
●乱暴に類型化するとすれば、リア充とは「メタ化を嫌う」人たちであり、オタクとは「メタ化したがる」人たちだと言える。しかしぼくにとって重要だと思われるのは、どちらにしても、その一方に安定的に留まることは出来ず、一方から他方―と必然的にずれ込んで行かざるを得ないということだ。その、「ずれ込みの必然性」のなかにこそ何か(「魂」)がある。ハロウィンにおいて、例えば10月21日の日記に書いたオタク的「中二病的世界」とリア充的世界が、一瞬だけ重なるとも言えるのではないか。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20141021