2022/11/01

YouTubeで渋谷のハロウィンの4K動画を観ていて、ああ、なんで自分がここにいないのだろうと思った。もちろん、リア充陽キャとはほど遠いので、友達とコスプレして参加したいというのではない。ハロウィンの渋谷は、ぼくのための場所では決してない。しかし、一人ぼっちで、あたかも異界がひらけているかのような(自分の居場所ではありえない)あのような喧騒のなかを、ただただ練り歩きたいと思うのだ。それは、ぼくになんともいえない幸福をもたらしてくれるのではないかと思う。

4K 渋谷ハロウィン 2022年10月29日 Japan,Halloween Tokyo Shibuya Party, - YouTube

様子(雰囲気)はまったく異なるのだが、フィレンツェの夜の街を一人でただ練り歩いたときの幸福を思い出した。以下、2006年11月27日の日記から引用。

サン・ジョバンニ礼拝堂から、レップブリカ広場、ベッキオ橋へと至る通りは、ブランド品などを売る店が並んでいて、夜になると凄い人通りで、まるで縁日のような感じになる。この通りの中程にあるレップブリカ広場は、一つとなりの通りが通じているシニョーリア広場のように派手な銅像とかはなくてたんなる平面で、そのかわりメリーゴーランドがひとつ置かれている。通りの途中に(八十年代はじめ頃の原宿駅前みたいに)洋服や土産物を売る露店が集まっている一画もあって、いっそう縁日感が強調される。基本的に煌煌と輝くようなネオンはないので薄暗くて、広場も暗い。(この暗さが、ゆったりとまわるメリーゴーランドの輝きを強調してもいるようだ。)薄暗いなかに、とても多くの人々がひしめき、ざわめいていて、観光客も多いので、聞こえて来るのがイタリア語ばかりではなく、英語や日本語などもかなり高い割合で混ざっていて、たまにフランス語や中国語、韓国語みたいなのも聞こえて、それらのあちこちでたっているざわめきが、ざわざわと混じり合うのではなく、一つ一つが不思議な反響をしながらも粒だってくっきりと聞こえてくる。(『ベルリン・天使の詩』の図書館のシーンを思い出すけど、あれよりもずっとうつくしく響いている。)広場には、観光客だけでなく地元の人たちもあつまってきていて、観光客たちは買い物に興じている浮ついた感じがあり、地元の人たちからも一日の労働を終えた開放感や、人々が集まっているところに来ている昂揚感や華やいだ感じが感じられ、ざわざわ響く声の反響と、薄暗いので一人一人があまりはっきりと見分けられないのと(人々から重さや厚さが消える感じ)、人々から発せられる開放感とがあわさって、まるでこの場所が、生きていた時の様々な悩みや苦しみから解放された死者たちが集まっている場所であるかのように感じられたのだ。このような言い方は陳腐かも知れないけど、それは何とも言えない幸福な感じで、滞在の最後の夜など、広場のベンチに座って人々の行き交うのを眺めながら、自分が明日からはもうここに来ることが出来ないのだという事実が、なんとも理不尽な不幸であるように思えてくるのだった。(この通りから、ドォーモの前の車の通りの激しい道に出ると、死者の街は消えて、生きている人たちの活気あるざわめきが戻ってくるのだが。)

●十代の頃に大好きだったアンソールを絵を思い出したりもする。

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