ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』

●ぼくはヴァージニア・ウルフはあまり得意ではなく、最後まで読み通した小説は『灯台へ』だけなのだが、『灯台へ』はとても好きで、折に触れて何度も読み返している。はじめて読んだのはたぶん10代の頃で、その頃はヴァージニア・ウルフという名前も知らなくて、古本屋でたまたま見つけて何となくタイトルに惹かれて買って(伊東只正訳のやつ)、読んだでみたら面白くて、でもその時は、第2部「時はゆく」の途中でひっかかってしまって、最後まで読み通せなかったのだった。途中でやめてしまったのは、最後まで無理して読むことで第1部を読んだ感触を忘れてしまう(消してしまう)のが嫌だったからでもあって、つまりぼくにとってそれくらい第1部「窓」は素晴らしく思えて、しばらくはそれを読んだという余韻に浸っていたくて、それ以上新たな何かをインプットすることをしたくなかったのだった。読み進めるということは、次々と新たな情報をインプットしてゆくということで、するとどうしても、前の方で読んだもの(読みつつ感じたこと)は、忘れてはしまわないまでも、どんどん薄れてしまう。だが、永遠にその途中に留まるというというのは、その言い方はうつくしいけど、やはり「作品」というものには(ぼくはそれは仮のものでしかないとは思うのだが)全体というひとつのフレームが存在し、その全体のなかではじめてみえてくるものがあることは否定出来ない。(あくまで仮のものである「一つのフレーム」が成立することで、複数のフレームの折り重なりや細部の粒立ちがあらわれるのだと思う。)作品には、全体として統合されることを拒否するような細部の多方向への動きだけがあるのでもなく、全体に奉仕する細部の秩序だった配置だけがあるのでもない。例えば、読んでいる途中に凄く良いと思える場面があって、そのページに栞のようなものを挟んでおいて、後で戻ってその部分だけを読み返してみると、思ったよりも良くなかったりすることもあれば、通して読んでいる時には大して目立たなかった細部が、そこだけ切り離して読んでみると、とたんに輝いたりすることもある。作品とは、それらのことがまるごと含まれているものなのだ。本を読む時には、その内容をどれだけ受け止めることが出来たかということとは全く切り離された、たんに「読了」することの達成感のようなものがあり、それが本を読む時の最大の障害にもなると思うのだけど、しかしその一方、その達成感への希求が、(決して楽ではない)読むという行為の持続を支えたり、あまりに多方向へと散って散漫になってしまいがちな関心のあり様を引き締めて方向性を与えたりする効果となることも否定は出来ない。『灯台へ』の話がいつの間にかズレてしまったようにみえるかもしれないけど、『灯台へ』という小説は、それを読んでいる時に、以上のようなことを意識させるような小説なのだと思うのだ。
岩波文庫から最近新しく出た『灯台へ』を読み返した。やはりぼくは第1部が圧倒的に好きで、狭い空間のなかに多数の人物が、時に切り離され、時に重なり合いながらも、ざわざわとざわめいているこの感じは、複数の人物たちを、ある時は外側から記述したり、ある時はその内側へと入っていったりと、自由に動き、距離をとることの出来る視点を設定出来る小説にしか出せないものだろうと思う。そして、このざわめきは、結局ラムジー夫人という一人の人物の存在を描き出すものなのだと、気付いた。それは、ざわめきがラムジー夫人という中心に向かって収斂されてゆくということではなく、ざわめきがざわめきのままで、ラムジー夫人の像をたちあげるという感じなのだ。(多数の人々がさわめいているその空間こそが、ラムジー夫人なのだ、と言えば言い過ぎだろうか。)『灯台へ』という小説は、全体としてはラムジー夫人という存在についての小説だと思う。第3部で、灯台へ向かう船の上で、ラムジー氏と、その子供、ジェイムスとキャムとが和解する素晴らしい場面においても、そこには不在のラムジー夫人の存在が色濃く影響しているようにみえる。