メルヴィル「バートルビー」(坂下昇訳)

メルヴィルの「バートルビー」(坂下昇訳)を読んでいて、これは黒沢清が映画にしたらとても面白いのではないかと思った。それも、1時間くらいであっさり終わってしまうような。この小説はバートルビーの雇い主の饒舌な語りによって語られていて、バートルビーの行為(と言うか、何もしないこと)の進展(?)が、その行為(何もしないこと)への反応としての、雇い主の彼に対する「考え」や「処遇」の揺れ動きによって描かれている。つまり、何もしないこと(何もしないことの深まり)、を描くためには、何もしない相手にどう対処するかという「反応」(反応の変化)を通して描くしかないというこだろうと思う。しかし映画だったら(と言うか黒沢清だったら)、その「何もしないという行為」を、ただ「何もしない」こととして(その反映としての最小限の「反応」を示すだけで)描くことが出来るのではないか。(ややこしい言い方になるが、黒沢清だったら、「何もしないこと」を「具体的な行為」として提示出来るのではないか。)そしてその方が、『バートルビー』という物語の意味が、よりくっきりと際立ってみえるのではないだろうか、と感じたのだった。それはおそらく、『復讐/消えない傷跡』や『蜘蛛の瞳』のさらに先にあるのような映画になるはずで、現在の黒沢氏の路線(興味)からはやや外れるのかもしれないけど。
(こういうことを書くと文学をちゃんと勉強している人から怒られるか笑われるかするのだろうけど、ぼくは、バートルビーという存在を、その雇い主である弁護士の視線や反応を媒介としてしか描けなかったところに、この小説の弱いところがあるように思うのだった。この、適度に俗っぽく適度に立派な弁護士の考えや反応は、読者の反応をある程度先取りして方向付けするもので、それによって読者とバートルビーとを結びつけるものなのだと思うけど、それがあまりに丁寧すぎて、読んでいていちいち先回りして誘導されているような感じがしてしまうのだった。あるいは、「読者とバートルビーとを結びつけるもの」(=弁護士の反応)が、基本的に「同時代の一般的な読者」を暗黙のうちに想定しているものなので、そうではないぼくがそれに馴染めず、余計なものと感じてしまう、というだけのことかもしれないのだけど。)