2022/04/17

保坂和志の小説的思考塾vol.7。今回、なんといっても迫力があったのは、さんざんハイデガーについて肯定的に語った後に、最後に、ハイデガーハイデガーのもつある種のマッチョ性)に対する疑問について語ったところ。《ハイデガーには「人は何をなしうるか」という、人間に対する強い肯定がある》。しかしこの「人(の主体性や能動性)に対する肯定」に対する疑義として、バートルビーがあり、カフカがあり、ベケットがある。

「作品」が、世界と大地との闘争であるとして、そこで、世界のなかで隠された大地を顕わにする(「作品」を制作し得る)特権的な媒介として「人」という特異な存在者がある。あるいは、《想起されたもの(過去)は我々の現在を軽く越えて、彼方へと身を躍らせ、そして突如、未来の中に立っている》という時、その「過去」を引き受けて「未来」へと展開させる(媒介的であるとしても)能動力をもつものとして人が想定されている。人は堕落しているが、堕落から脱することが出来るものまた人である、というような。このような「人間の肯定」に対しては、カフカによる、《理由もなく行き倒れになってそのままいつまでも転がっているような者を、人々は怖れる。これが先例となって、この先例から真理の悪臭が立ちのぼることを人々は忌む》という言葉が強く疑問を投げかける。

しかしそれを実践することは簡単なことではない。我々は誰もバートルビーにはなれない。バートルビーについて考え、バートルビーについて書く者は、(作者であるメルヴィルを含め)一人の例外もなくバートルビーそのものではありえない。バートルビーは、書き写すことも、最後には食べることさえも、「せずにすめばありがたい」と言って、何もせずにそのまま死んでいく。この、徹底した能動性への拒絶を実際に生きることは困難だ。我々は戦争がはじまればすぐに「軍事費の拡張を…」とか言い出すくらいに、「人は何かをなしうる」という能動性を信じてしまっている。というか、それを信じないで生きるのは困難だ。敵が攻めてきたらただ黙って殺されればいいとはなかなか言えない(ひたすら逃げろ、とは言えるかもしれない)。

ハイデガーのなかにあるマッチョ性は、ハイデガーのなかにさえあるマッチョ性であって、ハイデカーを批判したり、退けたりすることで済む話ではない。それは我々のなかにはより強くあるかもしれない(たとえばそれはアーレントのなかにもあるのではないか)。保坂さんはそれを、人が何ごとかを為し得ると考える「人間に対する強い肯定(強い人間の肯定)」そのものが問題ではないかと問う。「人が何ごとかをなし得る」という、我々の足もとにある「基盤」を共有することを、ベケットは徹底して拒否する。

(保坂さんには、「勇気をもって立ち上がる」という時の「勇気」を賞賛することに対するためらいが常にある、と。)

人が何ごとかをなし得るという「基盤」に疑義を唱えるとしても、バートルビーそのもの(圧倒的に無力であることを受け入れる)には成りきれない時、どうすればいいのか。答えはない(『プレーンソング』は、その答えの一例を示しているかもしれない)。一つの戦略として、アイロニカルな偽のマッチョ、アイロニカルな偽の保守という戦略はあり得るかもしれない。三島由紀夫やミシェル・ウェルベックのような。ただ、ぼく自身としてはそれは嫌だ。

ドゥルーズの『シネマ』では、映画は西部劇において感覚-運動図式を完成させ、有機的(能動的)な身体性を成立させたとされる。それに対して、戦後の映画では、(昨日引用したところだが)《運動よりも、むしろ世界の中断》があらわになり、状況に反応することも思考することのできない《見者の心的状態》としてあらわれる《精神的自動機械》という新たな身体性が生まれるとする。この戦後の映画にあらわれる精神的自動機械を先取りしているのが、ベケットであり、カフカであり、バートルビーであろう。そしてドゥルーズにも、この先の(つまり、ならば我々はどうすればいいかについての実践的な)展望はない。ここから唐突に、世界への愛と信仰の話になる。保坂さんは、「神はもう決して来ないことを知っていながら、それでも神を待ち続けているのが後期近代なのではないか」という樫村晴香の言葉を引く。

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